全米ヨガアライアンス200時間トレーニング 5期生卒業!

2018年3月11日(日)。

全米ヨガアライアンス200時間コースを受けていた5人のヨギーニたちが、

無事、200時間認定を受けて卒業しました。

 

みんな、6ヶ月間、本当に頑張った。偉かった!

 

 

ヨガの先生になるためのトレーニング。

効果的に、安全に、ヨガの指導ができるようになるために、

私も一生懸命、多くのことを伝え、

コツコツと、一緒に練習する。

 

とっても濃い時間を過ごさせて頂く6ヶ月です。

 

その中で、毎回大切に感じるのは、「自分発見」。

 

お互いを通して、ヨガを通して、

知らなかった自分に出会う旅路。

 

今までとは違う視点で、

多面的に人生を見る力。

 

自分を信じること。

卒業しても、それを忘れないで欲しいと思う。

 

 

お互い知らない者同士が初めて出会って、

これだけ助け合い、学び合う時間は、

大人になって、あまりないような気がします。

 

私も、指導者として、

トレーニングを通して学ばせて頂くことが、

とってもたくさん、あるのです。

 

 

私は1999年にヨガに出会いました。

 

それから、

ヨガの練習者として、

今もこの道を生きていますが、

 

疑問に思うことや、

信じていた考え方を手放すことや、

先生のもとを去ることもありました。

 

これから、

ひとりで歩まなければならないというような場所に立った時、

砂漠の真ん中に孤独な状態で、

どこへ向かえば良いのかも、分からないこともありました。

(今も時々あります)。

 

でも最近、切実に思うのは、

人は、何かを「信じたい」と思っているということ。

 

日本という国で、

ほとんどの人たちが、

「信じるものがない」という状態で、生きてる。

 

だけど、

信念のない生き方には、人は空しさを、空虚を、感じる。

 

例えその信念が、

「心の産物」であったとしても、

 

人間の歴史を見ていくと、

どの時代も、人は何かを信じて生きてきた。

 

私は迷いながらも、

最近、改めて「決断」したのです。

 

私は、「ヨギーニ」だと。

ヨガをする女性だと。

毎日、ヨガの練習をして、瞑想をしていくのだと。

 

それがどれだけ今まで、自分を支えてくれたことか。

 

人生には、波がある。

 

悪い時も、良い時も。

暇な時も、忙しい時も。

 

負の方に傾くと、誰でも悲観的になって、

何もかもを、投げ捨ててしまいたいと思うこともあるかもしれない。

 

でも、そんな時でも、

信じて生きていけるものがあって、

私は良かったと思う。

 

トレーニング卒業生にとっても、

これからも、ヨガが助けになって欲しいなと思います。

そして、ヨガによって、人の助けになれる人になって欲しい。

 

 

トレーニング後半には、

簡単なタイマッサージの練習もしました。

 

 

この頃になってくると、

指導にも余裕が出てきていたので、

マッサージもゆったり、楽しめました。

 

 

3期生の卒業生も、マッサージには参加してもらい・・・。

トレーニング卒業生の間でも、つながりができて、

とっても純粋なコミュニティのようで、うれしいのです。

 

 

改めて・・・

5期生の皆さん、卒業、おめでとうございます♡

 

これからもヨガを楽しんでね。

そして、トレーニングで学んだことを、ヨガ以外のことにも、

生かしていってください。

 

 

 

● 次回のトレーニングは、

2018年9月(平日コース)です。今から受付可能です。

こちらのリンクをご覧ください → 200時間トレーニング

 

● 熊本でもトレーニングを開催します。

熊本は週末コース。2018年11月~2019年5月まで。

詳細はお問合せください。

shakti.mandir.yoga@gmail.com

 

ナマステ♡

 

 

at 21:39, shakti-mandir, 2. ティーチャートレーニング / YTT

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毎日同じことをする

「毎日違うことをする生き方」ってタイトルで前回ブログを書いてから・・・。

それについて、しばらく考えていました。

 

特にヨガの先生とか、ミュージシャンとか、

移動が住居になっているタイプの人っている。

 

だけどよくよく考えると、

そうやって動いている人たちって、

移動しながら、

毎日同じことをやっている。

 

ヨガの先生は、

どこに行っても毎日欠かさずヨガの練習をしている。

 

ミュージシャンは楽器の練習、毎日している。

 

毎日、同じことを、こつこつと、やっているのです。

 

この、毎日こつこつとやるってことに関しては、

この人たちは、妥協しない。

 

継続は力なり、とは、本当にその通りだと思っている。

 

毎日違うことをする生き方をしながら、

この、「毎日こつこつ同じことをする」を除いてしまったら、

一体どうなるんだろう・・・。

 

楽器の練習も、ヨガの(ポーズの)練習も、

英語の勉強も、

みんな、こつこつすることでしか、身にならない。

 

ジプシーみたいに生きてる人でも、

そこんところは、結構、かなり、マジメである。

 

でも、

人によっては、

毎日違うことをして、

こつこつ何かを継続することもしないわって生活でも、

別に良いかもしれないし、

 

毎日同じことをして、

推測がつく日々を送ることが好きって人がいても、それも良い。

 

人は色々。

 

自分と相手が、

同じ価値観である必要はない。

 

at 21:42, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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毎日違うことをする生き方

ちょっと久しぶりのブログになってしまいましたが、

2月末にもなると、時々、春の兆しを感じることがありますね。

 

先日、夕方ひとり、リストラティブヨガをやっている最中。

日暮れの時間が少しだけ遅くなったこと。

そして、夕方でも、鳥が鳴いていた。

その声は、軽やかで、朗らかで、

ああ、春が来るのだと、感じたのです。

 

"Anticipation" という言葉が英語にあります。

何かを予期する、というような、ニュアンスの言葉かな。

 

春は、動きがある。

それはまさしく、これから特別な何かが起こるような、兆しにも感じられます。

 

こんな、季節の移ろいに気づくこと・・・。

人間は毎日、オフィスなんかで、パソコンや携帯を触っているから、

自然がこうして変化していくことにも、

気づかないことがある。

 

人は農業を始める前は、狩りをして暮らしていた。

その頃のホモサピエンス(人間)は、

どんな時代のホモサピエンスよりも、

あらゆる能力において、長けていた。

 

道具を作ること、

手先の器用さ、

獲物を追いかけること、

走って逃げること、

音を聞き分けたり、

目ももっとよく見えただろうし、

 

災害が起こったらどうするべきか、

ひとつの食物が尽きたら次は何が食べれるのか、

 

例をあげたら限りがないくらい・・・。

 

生きる能力において、

あらゆる側面で現代人は、

狩りの時代の人たちに、かなわない。

 

現代人は、

何かひとつのことに特化した能力を持つ人たちが、

お互いの不足した能力を補い合いながら、生きている。

(例えば、私はちょっと英語ができるから通訳をするけど、

家を建てることはできないから、

それはそれを得意とする人にお願いすることになる)。

 

そんな私たちは、

大自然の中で、

自分だけ、

ひとりぼっちになったとすると、

数日できっと、死んでしまうだろう。

 

自然の中(例えばジャングルなど)で、

自分ひとりで生きるすべを知ってる人って、

そう滅多にいない。

(若干一名、この人ならできるかもって人を知っているが・・・)。

 

そういったところでは、人はサルに劣っている。

サルはどんなに過酷な自然の中でも、どうにか生きてくすべを知ってるもの。

もちろん、過酷な自然の中での子ザルの死亡率は、人間のそれよりも高いだろうが。

 

・・・こんな話を、

イスラエル人の歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリは、

「サピエンス全史」の中や、youTubeで語っている。

 

彼の話は膨大すぎて、

ここに要約を書くことはできませんが・・・。

 

今、「サピエンス全史」を、

(必要があって)、

英語で読んでいて、

(英語で読まなければならないので)・・・。

 

まだ全然読み終わってないけど、

(まだかなり最初の方)

 

おもしろいなって思ったところがあります。

 

狩りの時代の人たちの仕事の話。

彼らは、狩りや植物を採りに出かけたりする仕事をしていた。

それは1週間におおよそ35~45時間の労働量だった。

 

現代人でも8時間労働で5日働くと、残業なしで、週40時間。

(土日はお休みだけど、家の仕事があったり・・・)。

 

でも、著者の言うには、

狩りの時代の人たちは、今の時代の人たちよりも、

仕事を楽しくやっていた。

 

その理由。

それは、毎日、違うことをしてたから、だって。

 

午前はあそこに狩りに行って、

午後はあそこに木の実を採りに行く。

明日はまた別の場所、または、明日は川へ行くかもしれない。

 

それに対して現代人は、

毎日同じ会社へ行き、

データ入力とか、組付け作業みたいな、

繰り返し作業、

同じことを何時間もするのが仕事って場合が多い。

 

椅子に座って一日中動かない・・・。

そんな仕事を楽しい!って、

やりがい持ってやることは、困難だろうと。

 

毎日違うことをする方が、楽しいだろうって、言うのです。

なるほどなと、思います。

 

私は特に、毎日同じことをすることが苦手なので、

毎日同じことをしている職業の人って、

すごいなって、

いつも、どうやったらそんな日々を送れるのだろうって、思ってきた。

 

それが最近、インスタグラムを始めて!

ヨガの先生の写真なんかを見る機会が増えましたが、

ヨガの先生たちは、移民?ジプシー?ってくらい、

みんな毎日同じことをしていないどころか、

毎回いる場所や国まで違ってる人の多いこと・・・。

 

ヨガしてる人は、

狩りの時代の人のDNAをより多く受け継いでいるのか?

 

(↓さっそく、インスタグラムの活用)

 

 

私は別に、どっちの生き方でも、

自分に合っている方を選べるのであれば、選べば良いと思いますが。

 

でもこの先、

色んなことを臨機応変にできるってことが必要になってくる時代が、

来るのではないなか・・・とも思います。

(ひとつの仕事に留まらず、色んなことをやる時代?)。

 

毎日、違うこと、違う仕事をして生きるなら、

どんな仕事が良いかな〜?

 

連想ゲームとか、遊びみたいに、

色々想像してみると良いかもしれない。

 

そのゲームは、「将来性」などは考える必要のないゲーム。

子どもが遊びを思いつくのと、同じようにやってみる。

将来性があるかな〜というのは、後からどうにかしたら良いことで、

楽しそうなことを、考えたい。

せっかくだからね。

 

私はいつか、これがやりたい。

コミュニティーガーデン。

なんで?

なんでかな〜?

 

 

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ペインボディ(前回の続き)

「ペインボディ」について、昨日ブログを書いたのは、

最近つくづく、ペインボディ(またはサムスカーラ)の根は深いと感じる出来事が・・・、

「出来事」というか、

出来事によって起きてくる「ペインボディ」をキャッチすることが、

ちょくちょくあったからです。

 

ペインボディは、忘れた頃にやってくる。

(サムスカーラも同じ)。

 

もう、大丈夫だろうと安心している場合じゃない!

 

体でそれをキャッチしたら、

それがどこからやってくるのか、

「向き合う」。

 

これって、

「問題(闇) に飛び込んでいく」ようなことで、

かなりの勇気がいる。

 

過去に傷ついた痛みの記憶を、肉体が、覚えている。

その記憶(感情)によって言動を起こす私たち。

でもペインボディから起こす行動は、絶対に良い結果を生まない。

 

人は、それが分かっていても、

何度も何度も何度も、同じパターンを繰り返し、

何度も何度も何度も、同じ結果にたどり着き、傷つく。

 

でもある時、

「もう何が何でもその同じサイクルを繰り返すものか」、

と、心のむちゃくちゃ深いところで、決断する。

 

というか、決断しない限り、変わらない限り、

そのパターンを繰り返しては、

もうこれ以上、生きていけない。

 

そんな生き方はもう「無理」になる。

 

ここまで来るのに、すでにかなり苦しい。

 

そしてその先も、きっと苦しいぞ〜。

 

だって、

ペインボディと付き合うことは、

自分のすごい深い暗い部分に、

飛び込んでいく作業だからだ。

 

それって「闇」だから、

自分であっても未知の世界で、

とても怖いのである。

 

でも、

そうすることでやっと、

少しずつだけど、

いつも陥っていた罠に、

(それは自分がしかけた罠でもあるのだが)、

落ちないように、生きれるようになる。

 

そしてまた時々、ペインボディに振り回され、

でも、

振り回されてることに、

「気付く」タイミングが、

少しずつ早くなる。

 

そして闇の闇の闇に飛び込めば飛び込むほど、

ぽろぽろと剥がれていくものが出てきて、

例えば不安でも悲しくても、

(その結果、怒りがあっても)、

「大丈夫」みたいな気持ちになり、

 

すごい、腹がすわる。

何があっても、もう絶対たじろかない、という自信が湧いてくる。

そして、人生をこのまま信じていけるようになる。

 

これが、地に足がついた、と言う感覚なのかもしれない。

 

そんなことを考えていたとき、昔読んだOshoの文章が、

フェイスブックの「過去の思い出」で、出てきた。

 

Oshoは、この闇が「ハート」なんだと言っている。

そしてそこに、愛があるんだって。

 

そうだ。そうだよなって思う。

 

この愛は、損とか徳とかの勘定がない愛だ。

見返りなんてどうでも良い愛だ。

 

それを感じるには、自分の闇の底に飛び込んでいくことが不可欠なんだ。

そしてこれが、もうずっと長いこと、

この課題に取り組むのが、

自分のミッション(使命)だった・・・。

今も、そうだ。

 

自分の闇の深いところに行くと、

自分の光と闇、その両方があって、良いんだってことになる。

それが、自己統合なのかもしれない・・・。

 

このプロセスは、これからも、何度も繰り返していくのかな。

やっぱ、これが、私にとってのヨガかもしれない。

 

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"LET LOVE BE YOUR PRAYER (Part 5)"

Oshoの文章を、翻訳してみました。 

 

 

子どもの頃から人々は、芽を摘み取られてきた。

ハートに深く根付いていたはずの根が、切り取られた。

頭の方ばかりへと気を取られるようになり、

ハートが何を感じてるかを受け取れない。

だから人はもう長いこと、苦しい。

だから、愛を感じなから生きることができない。

 

その理由はこうだ。

 

愛はリスキー。

愛するとは、危険なこと。

なぜなら愛をコントロールすることなんて、できないのだから。

コントロールできないことは、安全ではない。

愛は自分でどうにかできるものではないのだ。

愛はどう展開するかも分からない。

愛がどんな方向へ向かっていくか、予測なんてできない。

それが何かに到達するのか、不毛であるのかも、誰も知らない。

それは、まったくの暗闇に飛び込むような行為だ。

だけど「根は」、暗闇の中でしか育たない。

 

もしも木の根が暗闇の深い場所へ伸びることを恐れてしまったら、

そして地下深くへ根を下ろさなかったとしたら、

その木は死ぬだろう。

 

暗闇の中へ深く伸びる必要がある。

 

大地の一番深いところで、

水や栄養を与えてくれる、一番深いところまで、行く必要がある。

 

「ハート」とは、あなたの、もっとも暗く深い場所だ。

それは真っ暗な夜みたいなものだ。

それは子宮のようなもの。それがあなたの、大地だ。

 

人は、自分の闇の部分を知ることを恐れる。

いつも光を求めている。

そうすれば、少なくとも、自分がどこにいるかわかるだろう。

そして、何が起こっているかを見ることもできる。

安全で、守られているような気がする。

 

でも、愛をもって生いる時、

それが、どんな可能性を含んでいるのか、

その愛がどんな結果をもたらすのか、

推測や計算をすることはできない。

 

愛は、結果ありきの行為ではない。

 

愛にとって、未来は存在しない。

「いま」しか存在しない。

 

いまに存在することはできても、

次の瞬間は推測することはできない。

 

愛を、計画立てることはできない。

 

社会、文明、文化、教会なんていうものは、

小さな子どもに、もっと理性的になれと教えている。

彼らのエネルギーをハートではなく、頭へ向かわせようとしている。

すると、ハートへ深く入っていくことが難しくなる。

本当は、とてつもない愛をもって、すべての胎児は生まれてくるはずなのに。

人が生まれるのは、愛というエネルギーの源に生まれるはずなのに。

 

子どもは愛に溢れている。

子どもの小さな目を見れば、どれだけの信頼をもって世界を見ているかが伝わってくる。

子どもは何だって信じる、例えば、蛇と遊んだり、誰か知らない人にさえ、ついていったりする。

子どもは危険な火の近くへ行くのも恐れない。

なぜなら、彼らはそれが危険だと「疑う」ことを、まだ学んでいないからだ。

 

だから、大人が「疑いなさい」と教えるのだ。

懐疑心を植え付けるのだ。

論理的になるように、教えるのだ。

そうでないと、生きていけないから、と。

恐れを教え、注意しろ、用心深くなれ、と言い、

その結果、愛の可能性が、失われていく。

 

(by OSHO 翻訳は私)。 

http://www.osho.com/read/featured-books/life-love-laughter/let-love-be-your-prayer-part-5

 

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人生の後半

40歳を過ぎた頃から、死について考えることが多くなった。

 

40歳というと、寿命の半分、またはそれ以上、生きてしまったことになる。

ここから、後半の始まり。

 

どう生きるか、ということを考える時、

死の方向からそれを考えると、

どう生きるかというか、

「どう生きたいか」が、もう少しだけ、明瞭になる。

 

物の考え方、

言動、

生き方、

 

すべて、「癖」のようなものがある。

 

同じパターンを繰り返している。

 

私たちはある程度、

色々なことを自分で選べる社会に住まわせてもらっていながら、

 

自分の体も、精神も、参ってしまうような思考パターンや感情に、

いくつになっても、振り回される。

 

エックハルト・トール(作家)が、

「ペインボディ」という言葉を使っていたことを、思い出す。

 

--- 「痛みを覚えている体」。

 

昔あった傷ついた出来事と似たような出来事が起こったり、

そういった言葉を聞いたり、

そういった場面を見たりすると、

 

思考よりも先に、

体が痛みを思い出して、

感情が沸き上がってくる(それは、怒りだったり、悲しみだったり)。

 

でも、感情ボディ(感情を感じる体)で何が起こっているのか、

私たちは、ほとんどの場合、無意識なので、

 

何かよくわからないけど、イライラしたり、

腹が立ったり、やきもちを焼いたり、

悲しくなったり、鬱々としたりして、

 

そしてそういった感情は往々にして、

「近い存在の人」にぶつけてしまう。

 

その、近い存在の人というのはしかしながら、

自分にとって、大事な人であることが多い。

例えば、

親だったり、子だったり、夫だったり、恋人だったり。

 

頭の中では、

そういった大事な人とは、

健やかな関係を築きたいと思っているはずなのに、

行動が伴わず、

関係を壊してしまうような言動に出る。。。

 

ペインボディから私たちが言動を起こしてしまうと、

その言動を起こしている最中も、

その後も、

 

ものすごく、

体も、心も、

疲労困憊する・・・。

 

そんな経験が、人生の前半には、正直、いっぱいあった。

 

40代になって、人生の後半に入って・・・。

果たしてそんな痛み(感情)を、

この先、

微塵たりとも感じたいだろうかと、自分に聞いてみるのである。

 

もちろん、

感情は、蓋をするべきものだとは思わない。

 

感情は、自分を守るために、そこにあってくれる。

 

悲しみでも、怒りでも、

体は、その感情のエネルギーを使って、

自分が傷つかないように、

これまでに学んできた古いやり方で、

私たちに、警告サインを送っている。

 

だから、その警告サインに従うように、

きっと今までは、

怒りを表現したり、悲しみを表現したりしてきたという人、

たくさんいる、というか、ほとんどが、そんな人たちばかりだ。

 

そして感情は、ものすごいパワーを持って、人を動かす。

人は思考よりも感情によって、行動を起こすことが多いもの。

 

でも今、

ちょっと時間を持つことができるのであれば、

何か、負の感情のようなものが内に宿った時、

それが「ペインボディ」かもしれないと、

その感情を精査する時間を持ってみたい。

 

昔から、古くから、繰り返している痛みには、

なにか共通点がある。

 

自分が、大事にしてもらわなかった経験・・・。

自分には価値がないと言われてきた経験・・・。

何もできないと言われた経験。

捨てられた経験。

 

その時の痛みが、

今の私たちの行動までを、支配しているかもしれない・・・。

 

でも、もしかすると、

もうその痛みを感じていく必要は、ないのかもしれない。

 

「これは、自分のペインボディが反応しているんだ」

と認識するとき、

 

今起こっている出来事と、

感じている感情が、

実は、直接的につながっていないことに、

気がつかされる。

 

感じている感情は昔々に植え付けられたもの。

 

そして、そんな風にそれが、

過去からのペインボディのリアクションなのだとしたら、

 

「今、自分は、そのペインボディから、行動を起こす必要があるだろうか?」

 

と、自分に聞いてみる。

 

今、起こっている出来事が、

昔の痛みを思い出させるような出来事だったとしても、

必ずしも、昔と同じ、だとは限らない。

 

なのに、

昔と同じように行動をしてしまうことで、

昔と同じ結果を、招いてしまう。

(それが、カルマの法則だ)。

 

ペインボディを、無理やりなくすことはできない。

 

でも、「ペインボディなんだね」と、

それが存在することを、認識することはできる。

 

すると、ペンボディはある程度、静かになっていく。

 

そのためには、

自分に時間を与えること、

とりあえず行動することを、やめて、

ひとりで、

文字にしたり、絵にしたりして、

メンタルクレンジングをするのも、良いかもしれない。

 

そして、自分は、ペインボディではない、ということを、もっと知っていく。

それが、マットの外で行う、ヨガでもある。

 

どう生きるか。

それがある程度自分で選べる幸福を、きっと誰でも、無駄にしたくない。

 

もう二度と繰り返したくないような出来事があるのであれば、

どうしてだって、それを繰り返さない。

これは、決断。

人は、決断しないと、やっぱり同じことを、繰り返す・・・。

 

 

ところで、去年のクリスマス、

元夫で今は友達である子どもたちの父親のところへ遊びに行った。

 

彼はカナダ人なのだけれど、

彼のおばさんが、去年、

「安楽死」を選んで亡くなったということを、聞かされた。

 

おばさんは、90代で独身のフレンチカナディアン。

最後までオシャレで、なんでも自分でやっていたのに、

ある時転んでしまって、頸椎を骨折し、首から下が動かなくなったらしい。

 

カナダでは、2016年6月に安楽死が合法化されている。

おばさんは、安楽死を選んだ。

 

安楽死を希望すると、

何度も心理カウンセラーとカウンセリングセッションを受けなければならないらしく、

おばさんも、何度もカウンセリングして、本当に死んでも良いか、話し合った。

 

彼女の意思は強く、やはり安楽死を選んだ。

 

死ぬ前に彼女は、家族のメンバー全員に会って、

ひとりひとりにお別れを告げる。

何日間か、それに時間を費やした。

 

そして、最後の日、マフィンを1つ食べた後、

「さ、マフィンがなくなったわ。もう行く時ね」

と言って、

医者がいくつかの薬を投与し、

この世を去ったらしい。

 

そしてそののちも、世界はそんなに変わらず、

同じように、太陽も登り、月も登る。

私たちが生まれる前も、そんな世界があった。

 

どう生きるか。

どう生きたいか。

時々、考えてみる価値がある。

 

カナダの安楽死についての記事は、以下のリンクで見られます。

https://jp.vice.com/news/canada-legalized-assisted-suicide-but-there-arent-enough-doctors-to-keep-up-with-demand

 

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コンパクトに生きる

「コンパクトに生きる」

これが、居心地良い。

 

ちょっと前に、

「屋根ひとつお茶一杯」という本を読んだ。

(ドミニック・ローホー著)

 

ほとんどのコラムで、

嗚呼、そうだな、そんな風なのが良いな、としっくり来た。

 

特に「小さな家」というアイデアが好き。

 

そして家というのは、

「一生そこで過ごす」ものでは、ないような気もする。

 

「不動産」とは、動かない産物、みたいな意味があって、

「不」という字がついているのかもしれない。

 

でも、そういう、「動かない」概念を、翻しても悪くはない。

 

30代後半、40代という年になってくると、

家族を持ったりして、マイホームを買う人もいる。

 

毎月のローンの支払い、これが何年も続く生活・・・。

 

どれくらいの金額が、どれくらいの年月支払えるだろう・・・。

それを毎月払っていくストレスは、どんなものだろう・・・。

 

そのストレスがあるのであれば、

賃貸で暮らしていく方が良いのだろうか?

 

賃貸だって、毎月家賃を払わなければならない。

しかも、どれだけ家賃を払っても、

その家は自分のものにはならない。

 

今、日本にはたくさん空き家があって、

色々調べていくと、空き家の値段はめちゃ安い。

 

実は過去4年間の間、

趣味の一環で、

数えきれないほどの空き家を見に行っている。

 

その中で一番安かった物件は、なんと、250万円だった。

6-700万で買える家は、結構ある。

もちろん、修繕は必要だし、立地もそれほど良くない場合もある。

でもこれから、人口の減っている日本は、

どんどん、空き家が増えていく。

 

上手に空き家を活用している人たちも、何人か知っている。

 

少しの頭金があったり、

頭金がなかったとしても、

中古の安い家を35年のローンで買えば、

毎月の返済は、家賃よりも安くなる。

 

でも、中古の家の難点は、

もし、その家にもう住みたくなくなったり、

その家が必要ではなくなった時、

「買い手がいないかもしれない」・・・ということ。

 

いらなくなったのに、

売れない家の固定資産税をずっと払っていくなんてしたくない。

まさしく、負の遺産(負動産)になってしまわないように。。。

 

いらなくなったら、買い手がいるかな・・・。

とか、考える。

 

その時は、「土地の値段だけで売れたら良い」。

 

だって、中古の家は、家の値段なんて、もともとついてないものもある。

土地の値段で買える中古の家、ってたくさんある。

 

そこで、今後10年先、20年先、この「土地」は売れるかな・・・。

と考えれば良い。金額は大幅に下がったりしないかな・・・とか。

 

駅に近くて、便利なとこなら、売れるだろうなと推測がつく。

(もちろん、確実なことはわからないけど)

 

そんな感じで、安い家が見つかって、

将来売れることを前提でその家を購入して、

毎月、2-3万円のローンで暮らすことになると、

この金額なら、ストレスも少ないだろう。

家賃と比較すると、1Kでも3万の家賃というところはない。

 

お友達でも、シングルで子育てしながら、ヨガスタジオを経営してたり、

自分で事業をしている子が何人かいる。

 

「家を買う」ということは、

「そこから動けない」からやりたくない、という意見も聞いたりする。

 

でも、家を買うことで身動きができなくなる、と言う考え方を、

一度捨てると良いと思う。

 

また、家に何かを産んでもらうことだって、可能かもしれない。

「どんな地域」に家が建っているかにもよるけれど、

お店ができたり、民泊ができたりする場所・家もある。

 

そして、自分が動きたいのであれば、売ればいい。

 

年を取ったら、どんどん、スケールダウンしていけばいい。

 

で、どんどん、スケールダウンのイメージをするのも、楽しい。

 

カナダの友達は、タイニーハウスに住んでいる。

要するに、キャンピングカーみたいな家だ。

 

最小限にスケールダウンしていくと、そういう家になる。

 

今や、軽トラックサイズのキャンピングカーも日本にはある。

 

だけど、実際にキャンピングカーに住んでた人に聞くと、

結構、不便で長続きしていない。

 

カナダのタイニーハウスに住んでいる友達は、

知り合いの庭にタイニーハウスを置かせてもらっているので、

トイレもシャワーも問題なく設置できる環境にいる。

また、洗濯機も友達の家のを使える。

 

でも、本当に道にキャンピングカーをとめて生活していた人は、

まず、トイレとシャワーが面倒だったと言っている。

 

また、道に車をとめて寝ているので、不審者と間違えられる。

 

そして、冬、寒い。

日本なら夏は死ぬほど暑い!

 

年をとって、小さく、どんどんコンパクトになっていきたいと思うけれど、

できるだけ、居心地良いのが良い。

パートナーがいたら、

お互い気に障らないくらいの多少のスペースが欲しいだろう。

 

こうして、コンパクトに生きることを考えると、

要らないものが、どんどん増える。

 

これも捨てる。あれも捨てる。

だって置き場がないのだから。

 

ヨガも、コンパクトなアクティビィだ。

マットがあれば、どこでもできる。

 

通訳も、自分さえいえれば、どこでもできる仕事。

 

結局、そういう生き方が、心地良い。

 

制限されず、自由に連想していくと、

色んなアイデアと可能性が広がっていく。

アイデア、可能性に関してはコンパクトではなく、

限りなく、壮大でありたい。

 

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お金のこと

むか〜し昔のことです。

まだ20代後半の頃・・・。

3つ年上だった男友達が、

1000万円くらいの貯金があるって、

教えてくれたことがありました。

 

私はその頃、貯金なんてありませんでした!

 

「なんでそんなに貯金するの?」

と、尋ねたのです。

 

「特に理由はないけど、お金があったら、やりたいことができるやん」

 

すでに子持ち、もうすぐ30歳というのに、

精神年齢が今以上に低かった私は、

その回答に、「すごい!」と感動したのです。

 

あれから何年もの月日が経過しましたが、

「お金があったら、やりたいことができる」

という彼の言葉は、今でも時々、脳裏に浮かびます。

 

お金は働いて得るもの。

自分の時間と労力を提供し、その見返りで頂くもの。

 

でも、だからといって、

やりたくないことをしてまでも、

お金を得たいだろうか?

 

その質問への答えが「No」であるのであれば、

やりたくない仕事はせずに、

よって収入はなくなってしまい、

路上生活者になるのである・・・。

 

でも、路上生活者にはなりたくないから、

やりたくない仕事を仕方がなくしている。

 

そんな人たちが、ほとんどではないだろうか。

 

でも、

本当にやりたくないことを、毎日毎日我慢してやり続けることで、

体や心が病気になることもあるかもしれない。

 

この場合、

生きていくために、

やりたくない仕事をして、

そのために病気になって、

命を削るという、パラドックスになる。

 

「パラドックスとは、

正しそうに見える前提と、

打倒に見える推論から、

受け入れがたい結論が得られることを示す言葉」

(ウィキペディア/Wikipedia より引用)

 

この、「やりたくない」という拒否感、拒絶感を、

どの程度感じるかは、

人ぞれぞれのような気がする。

 

どんなことでも、

「ああ、いやだな、でも仕方がないな・・・」

という程度で、ある程度我慢しながらやってける人。

 

反対に、

「こんなの絶対無理!こんな毎日、生きてる意味ない」

というほど、拒否反応が起こる人・・・。

 

仮に誰かが、後者の方であって、

仕事でも人間関係でも、何でも良いけど、

「絶対無理!」と感じるのであれば、

それは、やめたいってことになるのだけれど、

 

それが生活に関わってることなのだとしたら、

その代わりになるものを探して、

どうにか生きていける状況を作り直さなければならなくなる。

 

圧倒的に、後者である状況が多い場合、

周りからは、「わがまま」というレッテルを貼られる可能性もある。

 

でも後者の人たちというのは、

周りに何と言われても、無理なもんは無理なのである。

 

そこで、

この無理をバネに自分の生きる道を開拓する人がいる。

反対に、そこに力強いバネの力がない人もいる・・・。

 

だから、人生は難しい・・・。

 

「これは絶対にやりたくない」という思いと、

「でも、生きていかなければならないし」という思い。

 

絶対に絶対にやりたくないっていうのが頂点に達した時・・・。

それでも生きてくにはどにかせなあかん!

となった時・・・。

 

むか〜し昔の私は、仕事もなく、小さな子どもを抱えていて、

どうしても収入が得たいという状況になったことがありました。

 

手っ取り早く、儲かる仕事と考え、公募に応募したことがある(笑)。

 

前もブログに書いたけれど、

2003年(だったと思う)、

とある文学賞に応募するため、小説を書きました。

 

賞金が200万円だった。

200万あったら、まあ、どうにかなるかって。

お友達の1000万からは程遠かったけど。

 

2007名の応募者から、7名の候補が選ばれ、そこに私も入っていた。

 

さあ、そこから最終選考までの数日間、

毎日通った神社!(笑)

 

「文学賞が取れますように・・・。200万円、南無阿弥陀仏(神社だから違う!)」

 

もちろん、文学賞は取れず(「もちろん」というのは、適切がどうか分からない表現ですが)。

 

トボトボ・・・という表現がぴったり似合う足取りで、最終選考のホテルを後にしました。

 

だけどその帰り道、

古ぼけた本屋で見つけた仏教の本が、

私の人生をちょっと変えてくれた。

 

落ち込んだ気持ちと・・・。

もっと、謙虚にならないといけないということを、

切なく学びました。

 

とは言いつつも、

いくら年をとっても、

「あかん、これ、やりたくない!」と思うことは、

何がなんでも、やらずに済むようにするという気合い(笑)は、相変わらず・・・。

 

だけど「それならどうするか」と時間をかけて考えることや、

コツコツと、何かを培うことが、

前よりも少し、できるようになった。

 

No pain no gain という言葉があって、

「痛みがなければ得るものはない」というような意味。

 

でも私は、この言葉もあまり好きではない。

 

誰も痛い思いなんて、したいわけないし、

 

忍耐とか、努力って言葉は、大嫌い。

(やっぱり謙虚になかなかなれないのかな・・・)。

 

何かやるなら、楽しくやりたい。

楽しいから、頑張れる。

頑張ったから、楽しくなる、こともあるかもしれないけど、

頑張っても忍耐努力しても、苦しいばかりじゃあね。

苦しみに美徳を感じるってことは、私にはない。

 

いつもブログが長いって言われる。(笑)。

 

今日も長くなってしまっているけど。

 

「これ、絶対にやりたくない」と思った時。

それが生活に関わることならば、

「これやめて、どうやって生きていくんだよ」と考えてみる。

 

1000万円あったとしても、収入なかったら、そんなお金、すぐになくなる。

 

でも、無理なことをして命を減らすのはイヤ・・・・。

どうやったら、生活に困らず生きていけるだろう。

知恵を絞るわけなのです。

 

頭悪いし元金ないから、株式投資や投資信託なんてできない。

で、結局いつもたどり着くところは、「自己投資」。

 

自分に投資しよう。

自分に投資して、自分が実のなる木となろう。

だけどそうすると、自分という木が腐ったら終わりだ。

だったら、心の体も、できるだけ腐らないような生き方をしよう。

 

ヨガのクラスの中で、時々生徒さんに聞くことがある。

「夢はなんですか?」

 

そして、「先生の夢は?」って聞き返される。

 

夢? 特にない。

 

でも、たまに、

今よりもさらにもっと自由でいたいなと思う。

そして、何年も前の友達が言った言葉を思い出す。

「お金があったら、やりたいことができる」。

 

これは守銭奴であることとはまったく違う。

 

自分という木に実がなって、できれば周りも豊かになる。

周りも豊かになって、自分にもその恩恵がまわってくる。

そのために必要なもののひとつがお金だから、

やっぱり、大事な存在。

 

お金について考えることも、

お金が欲しいと思うことも、

お金を好きでいることも、

全然、悪いことではない。

 

 

at 14:55, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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スタジオからのお知らせ

2018年前半に開催するワークショップ、トレーニングの日程に変更が出ました。

 

以下が最新情報です。

 

2018年2月 ◎

 

陰ヨガの練習と指導法

2018年2月2日(金)〜 4日(日)
@9:30-16:30
実践18時間 + 宿題2時間 トータル20時間
(ランチ1時間休憩)

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中級レベルのシークエンス with Daniel Clement

2月10(土)、11日(日)、12日(月・祝)@ 9:30-11:30

2/10(土)- ヘッドスタンド
2/11(日)- バックベンド
2/12(月・祝)- ねじりと前屈

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陰ヨガが自分でできるようになるためのワークショップ

2018年2月24日(土)
@9:30 〜 16:30 (ランチ1時間休憩) トータル6時間

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2018年3月 ◎

 

今年こそはヨガデビュー

2018年3月17日(土)@ 10:00 〜 16:00

3月17日(土)は新月です。新月はお願い事をするのに最適なタイミングだそうです。ヨガはありのままの自分と親密になること。自分の心や体に触れ合い、一緒に新月に、祈りを託してみましょう。マントラを唱えます。

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ヨガ指導者のためのスキルアップコース

Part 1 「様々なボディへの指導法」
    2018年3月8日(木)@ 9:30 – 15:30 (ランチ休憩 1時間)

Part 2 「シークエンス作り」
    2018年3月9日(金)@ 9:30 – 15:30 (ランチ休憩 1時間)

 

※ Part 1, Part 2 のどちらかのみ受講することも可能です。

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2018年5月には、ヨガティーチャートレーニング基礎コース(30時間)も開催予定です♡

 

お問合せ:shakti.mandir.yoga@gmail.com

 

 

at 21:24, shakti-mandir, 1. スタジオお知らせ/ Studio Announce

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