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カルマとリラ

「これをしなければならないとか、あれをしなければならないとか、

あそこに行かなければならないとか、彼に会わなければならないとか・・・」

 

そんな日常のやらなきゃならないこと達が、緊急性を問わなくなる。

 

あれもこれもと慌てながら生きるのではなく、

人生で起こってくる出来事に対して、

その都度、穏やかに対応できるようになる。

恐れることなく、

瞬間瞬間を満喫しながら・・・。

 

夢を見ながら、同時に覚醒した状態であることはできるか?

Yes.

 

(すなわち)、

あなたの人生という物語の中で、その物語の中に存在しながら、

同時にあなたは、

”はじまりや終わりのないものの一部”

だということに、

気づきながら生きることが、できるのです。

 

ヨガとは、その、

「はじまりがなく終わりがないもの」とは何かを、

見つけるための旅路なのです。

 

(Steve Ross "Happy Yoga"より)

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昔、会社勤めをしていた頃、

ひとりの上司が、

人生計画を立てる重要性について教えてくれたことがありました。

 

ある人が、

自分が何歳の時には何をしているか、という、

長期的な計画表を作っていて、

それによって、目的意識を持って生きている、

成功率が高まる、

というような、話だったような気がする。

 

行き当たりばったりで生きていた私は、

やばい、私には何の計画もない、と思ったものでした。

 

それから、

自分の年齢と子どもの年齢を合わせながら、

自分もざっくりだけど、計画みたいなロードマップを作ったりした。

 

それが助けになったこともあったし、

そうでなかったこともあった。

 

今はというと、

計画は、短期のものしか立てない。

そして計画通りに人生は進まないと、人生に教えてもらった。

 

ヨガ哲学には、

カルマの法則というものがあって、

それは原因と結果の法則であり、

行為には必ず結果がついてくるというような考え方。

 

今の人生でかえって来なかった結果は次の人生でかえってくる、

みたいな感じで、

輪廻転生につながる思想だけど、

 

ややこしいことは置いておいて、

 

普段の生活でも、

行動には結果が伴うことは、私たちも良く知っている。

 

歯磨きすれば、虫歯にならない。

歯磨きしなければ、虫歯になる。

みたいに。

(すごく安直な例だけど)。

 

 

ヨガをしている人たちで、

「流れにのって、なるように任せて生きている」

タイプの人たちは、

 

自分で稼がなくても誰かが稼いできてくれる環境にあるか、

ひとりで稼いでいても養う家族がいなくて、

それほど収入がなくてもやっていける人々ばかりです。

 

「自然に任せましょう」

 

というのは、

放っておいても、どうにかなる、というスタンスでの意見です。

 

優雅に、流れるままに、というのを、

"go with the flow"

と英語では表現します。

 

でも、

もしも明日自分の家に抵当権がついてしまうような状況だったり、

明日のご飯代もないような状態になったとしたら、

きっと、

go with the flow

とは言っていないかもしれない。

 

代わりに、

「どうにかしないと!」

と言っているかもしれない。

 

私たちは、自分が言える言葉は、

必ず、

自分たちが置かれた環境があるからこそ、

言える言葉であると知っている方が良い。

 

 

流れに乗って、流れに任せて、

ということだけでは、

生きていくことが困難かもしれないという状況の人たちは、

 

ヨガの指導者でも、

計画を立てて生きている。

「流れ」を自分で作っている。

 

 

今この仕事(ヨガの指導)をしておいて、

次にこれにつなげて、

それが収入になる、わけである。

 

これは、

歯磨きの例と、さほど変わらない。

 

カルマ(行動)に、結果がついてくる。

 

でも、

バガヴァッドギータが言っているように、

結果をコントロールすることはできない。

 

どんな結果になるかは、神のみぞ知る、だけれど、

ある程度のことをしておけば、

推測はつく。

 

スタジオ経営をしていて運営が危うくなった時に、

チャクラ瞑想をして経営がうまくいくと信じる人は、

経営破綻するだろう。

 

スタジオ経営をしていて運営が危うくなったら、

それを立て直すための戦略とマーケティングを考える。

しかも、早い時点でそれができる人は、

長期経営をしていけるだろうし、

「臨機応変」に対応できるであろう。

 

 

「臨機応変」と書いたが、この言葉が、好きです。

 

ヨガ哲学では、

原因があるから、結果がある、という考え方と、

物事は、ランダムに起こる、という考え方が、

混在しているような気がする。

 

ランダムに、

青天の霹靂、のように起こってくる方の出来事のことを、

ヨガでは、

リラ、という。

 

英語では、

"out of the blue"

と表現する。

 

日本語では、

「予期しなかった出来事」

と言うかもしれない。

 

 

シャンカラという人は昔々、

人は、「知識の不在」があるために(無知)、

真実をありのままに見ることができない、

と言った。

 

そんな「幻の世界」、

幻想に惑わされることを、

マヤという。(仏教用語)。

 

 

予期せぬことが起こり、

それが悪いことであると、

私たちは神に祈るかもしれない。

 

幻想の中で、助けを求めるかもしれない。

 

しかし、目覚めた人は、

それが幻想だと知っている。

目覚めた人にとっては、

幻想ではなく、真実が見える。

幻想では蛇に見えた物が、実際はロープであり、

恐れる対象ではないと知っている。

 

だから、マヤの原因は、「知識の不在」にあるとした。

 

 

それに対して、

タントラというタイプの思想をした人々は、

人生で起こってくるすべてのことを、

神聖なものだと捉えていたので、

 

幻の中で生きているそのこと自体も、

無知なのではなく、

それ自体があるがままの真実、神聖なもの、だと、

マヤさえもを、肯定的に受け入れている。

 

 

そうすると、

幻みたいなもの、

人生の予期せぬ側面に振り回されていること自体が、

「神の戯れ」、

神様の遊びごごろのように、捉えられるようになる。

 

すると、マヤがリラになる。

 

さて、

人生を生きる時に、

誰もがきっと、

必要なだけの計画を立てるでしょう。

 

計画を立てて、

それにそってある程度の結果が得られたら、

それはそれで、良いこと。

 

だけど、

計画通りに行かなかった時、

神の戯れとダンスするように、

「臨機応変」に、

優雅なダンスを踊るように、

 

計画とは違う方向に、

方向転換することが、容易にできるだろうか?

 

または、

あえて計画を立てずに、

オープンの状態で、

神の戯れのみに、

身をゆだねてみる、

勇気がありますか?

 

 

人生には、

色々な生き方があるし、
 

少なくとも私たちは、

ある程度、

自由に生き方を決められるような、

幸福な環境下にある。

 

年齢によって、

おかれた環境によって、

カルマの法則的な生き方をするとき、

リラと優雅にダンスするとき、

その両方を上手に使い分けたり、

その両方を同時にいったりきたりすることができると、

 

人生はもっと、楽に流れていくのではないかな。

 

そして、

様々な「体験」をするために、

私たちはこの体を与えられた。

誰もが、限られた時間しか持っていない。

 

その体験を通じながら、

ヨガは、

「はじまりもなく終わりもないもの」とは何かを知る旅路である。

 

そこに触れ合えた少しの瞬間でさえも、

それは、私たちに恍惚感と謙虚さをもたらしてくれるような、

それは、絶対的な体験なのだろう。

 

 

 

at 17:16, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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