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シッダールタ (ヘルマン・ヘッセ)

毎年、春からこの時期(6月)にかけて、体をデトックスしたくなります。

それは、体調の悪さというのが、少しのことでも、所々に現れるからです。

 

生きている限り、ストレスをなくすことはできないので

季節の変化や、日常生活から生じたストレスに対して、

居心地の悪さを感じない人はいないと思う。

 

この問題に対して、2つタイプの人がいる。

● 1つ目のタイプは、

問題解決して、居心地の悪さを取り除こうとするタイプ。

例えば、食事を変えるとか、運動するとか・・・。

私は、今はこっちのタイプ。

 

● もうひとつのタイプは、

居心地の悪さを、他の何かを体に入れることで、麻痺させてしまえ、というタイプ。

例えば、お酒飲んだり、甘い物食べたり、薬飲んだり。

私も昔はこっちのタイプだった。

 

正直、

どちらのタイプでも、良いと思っている。

 

2つ目のタイプの、

「調子悪くても、ビール飲めば治るわ」、ってメンタリティを見てると、

クソ真面目になりがちな自分を、嘲笑してしまいそうにもなるのです。

 

どちらのタイプであったとしても、
生きるって居心地悪いから、
もっとマシな状態になろうとするか、
あるいは、それを麻痺させる状態にするか、
というようなことを人はしている。

 

ところで、数ヶ月前に、犬(トイプードル)を飼ったお陰で、

毎日、川へ散歩へ行っています。

 

散歩へ行くことで、犬を通して、人と会話ができることが、とてもうれしい。

 

近所の豆腐屋のおじいさんが、黒い犬を散歩させていた。

私はこのおじいさんを、小学生の頃から知っている。

豆腐屋にも行ったことがあったけど、その豆腐屋は、今はもうない。

 

81歳とか、言っていたかな。

 

豆腐を売ってた元気なおっちゃんだったけど、今はおじいちゃん。

たった2キロくらいの小さな犬の糞を取るために、

それはそれは大きな”タモ”を持っていた・・・。蝉が1000匹入りそうなくらいの。

 

「小学校3年生の頃、もう3月になったら、この川に飛び込んどったんや」

って、

 

今は汚染されて泳ぐことなんて考えられない川を見て、教えてくれた。

 

「もうずっと、この川で育ってきたからな、わしらは・・・」

 

・・・川はずっとここにある。

 

豆腐屋のおじいちゃんとの会話の後、

ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を思い出す。

 

私の大好きな本。

ヨガの哲学が好きなら、きっと、誰でも好きであろう。

 

「この水は流れ流れ、

 絶えず流れて、

 しかも常にそこに存在し、

 常にあり、

 終始同一であり、

 しかも、瞬間瞬間に新たであった!」

 

豆腐屋のおじいちゃんにとっても、

川は、そんな存在だったんだって、

おじいちゃんが、言っている気がした。

(確実に、自分の心の投影でもあるけど)。

 

 

「常にそこに存在するもの」(プルシャ)

「変化するもの(常に新たとなる)」(プラクリティ)

 

川が、「それ、そのもの」を、シッダールタに表現するところ・・・。

好きなシーンのひとつです。

 

 

年を重ねた豆腐屋のおじいちゃんとの会話で、

「いつも川と共にあった」って話に、

 

変わらないもの(プルシャ)と、

変化するもの(プラクリティ)の、

「共存(2分化されない姿)」を、

感じて、

 

そういう時は、ちょっと、切なく、優しい気持ちになる。

最近、こういう時間が、何よりも好きだ。

 

 

小説の中で、シッダールタは、

沙門(出家して修行する仏教徒)をやめ、

商人になり、遊女と関係を持ち、

酒や賭博をするようになっていく。

 

その姿は、

純粋で志が高かったシッダールタからは、

想像がつかないようなもの、であるような気もするけれど、

 

彼は本当に若い頃から、

 

冥想も、修行も、

「我であることの苦悩からのしばしの離脱、

 苦痛と人生の無意味に対するしばしの麻酔にすぎない」

 

と言っていた。

 

そんな逃避や、しばしの麻酔なんて、

お酒を数杯飲んだりすれば、

一時的に、「我」を忘却することができるんだから、

 

修行でも、お酒での忘却も、

どちらも「無我」っていう意味では、

違いはないではないかと・・・。

 

 

さらに、

自分たちの崇拝する師が、六十になっても、

どれだけ修行しても、涅槃の境地に達してないのは、なぜだと思うか!と・・・。

(苦笑)。

 

 

自分たちは、修行することで、「自分を欺く」技巧は覚えるが、涅槃には達しない、と。

 

 

それは、修行する者にとっての、「苦」として伝わってくる。

だから、彼は沙門をやめて、お金持ちの商人になるのだけれど。

 

そこでも、彼は、苦しいのです。

苦しいから、そんな生活を捨てて、川に、たどり着きます。

 

 

シッダールタは、

彼の自我(エゴ)が、

瞑想や禁欲という精神性の中に入り込んでいたと、言っている。

 

断食や苦行によって、

その自我(エゴ)を殺そうとしていた、と。

 

そしてその自我(エゴ)は、どんなことをしても殺せなかった。

 

だから、彼は俗世に入り、

享楽と権勢、

女と金にふけることで、

彼の内の司祭と沙門を、殺さなければならなかったって!!

 

すごいなって思う。

 

それはそれは、ヘルマン・ヘッセのこの小説、

すごい内容だと毎回読むたびに、感嘆してしまう。

 

 

私たちの日常生活は、シッダールタのそれのようなものではないけれど・・・。

 

我を殺したくなったり、

忘却したくなったり、

 

時の流れを感じながらも、

 

変化するものと、変化しないものを、

同時に感じたり、している。

 

それは、自然が教えてくれる。

 

人の生も、死も。

 

自然は、美しく、切なく、悲しい。

そして私たちに、慈悲深さを、与えてくれる。

慈悲深さは、自分でつくるものではなくて、

与えられるものであると、感じるのです。

 

 

 

at 21:41, shakti-mandir, 8: 引用 / Quotation

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