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太陽が輝く日は、雨傘が日傘に

人生設計をきちんと立てながら生きていても、

なかなか、その通りにいくことは、ありません。

 

また、「きっと無理だろう」と思っていたことであっても、

知らない間に実現していることも、あります。

 

私が英語を勉強したのは、

英語を使って仕事をしたかったからではなく、

ただ英語が好きだったからでした。

 

まさか自分が通訳になるなんて、思ってもいませんでしたが、

 

仕事をしなければならない状況になって、

できるものが、英語しかなかったので、英語を使う仕事についたのです。

 

通訳のスキルは、英語を話すスキルとは、違います。

 

通訳はお手玉をするみたいな、仕事です。

 

いくつものお手玉を、落とさないように、キャッチし投げ続けるような・・・。

まさに「今」に存在していないと、できない仕事。

 

翻訳をすることもありますが、翻訳は嫌い。

翻訳は油絵を描くような仕事。

時間がかかり、推敲し、何度でも修正できるけど、じっとしていないといけない。

動きがない。

 

英語を使う仕事ひとつとっても、

自分に合っている業種、合っていない業種が顕著にある。

 

 

時々、「どうしてヨガを始めたんですか?」

と聞かれることがある。

 

色々カッコいいこと回答できたり、

自分の人生がドラマチックだった話をしたりすることもできるけど、

 

ヨガも、好きだからやっている。

 

英語もヨガも好きだから、両方一緒にやろうと思って、

ヨガ通訳者になりました。

 

 

ヨガ通訳から、他のボディワークや哲学の通訳のお仕事も担当させてもらえるようになると・・・。

 

通訳とは、

「自分の意見を持たない(言えない)」人なので、

誰か他の人の思考や言語になり、時々、自分のアイデンティティが曖昧になります。

 

もちろん、「私は通訳」、というアイデンティティはそこにあっても、

 

その役割を担っている時は、

 

やっぱり自分はちょっと、「楽器」みたいな存在で、

 

楽器はそれだけでは音は出さないけど、

 

演奏者がいるから音が鳴るのと同じように、

 

語る人がいるから、私の口から言葉が生まれてきます。

 

それは、「カメレオン」みたいなことでもあって、

 

今日は「太陽が黄色だ」と言う人がいたら、私はその言葉を語り、

 

昨日は「太陽は赤だ」と語っていたとしても、

 

今日はもっともらしく、「太陽は黄色です」と言わなければならない。

 

 

ヨガを指導していると、

体の使い方は、「こうあるべき」というような、

ヨガなりの考え方があるけれど、

 

ヨガの流派の中でも、考え方が色々違って、

時々、議論が起こったり、

自分の練習に葛藤が起こったりします。

 

 

「自分のヨガのやり方が一番の正解」

 

と考えることが、

 

通訳をしていると、できなくなってくる。

 

 

すべてのものは、「コンビネーション」であって、

 

ある人にとって、良いものが、

他の人にとっては、毒となることがあるように、

 

 

様々な考え方や、流派も、

 

どれかひとつ、正解があるわけではなく、

 

 

雨が降ったら雨傘、

 

陽が照る日は日傘のように、

 

 

必要なもの(練習法)が、

 

必要な人のところへ、与えられているのだと、気づかされます。

 

 

私たちは、

「自分は何ぞや」という観念を持ちながら生きています。

 

それは自分の自己同一性でもあり、

 

そこにチャレンジを与えられると、とても不安になったりします。

 

 

ひとつの役割を長く担ってくると、

それが、自分の自己同一性(アイデンティティ)になります。

 

その時間が長ければ長いほど、

 

そのアイデンティティを手放すことが、怖くてしかたがありません。

 

 

もしも、そのアイデンティティが手放されるようなことがあったとしたら・・・

 

それは、子どもが巣立っていくとか、(母という自分の役割が終期を迎える)、

 

仕事を変えるとか、

 

恋人と別れるとか、

 

病が治るとか(病もアイデンティティになっていることがある)、

 

その変化が、

ちょっと悲しかったり、空しかったり、するかもしれないけれど・・・。

 

 

私たちはその時、

本来の自分は、そんな「役割」ではなかったと知る、チャンスを与えられているのだと、思います。

 

 

私はヨガを指導しながら、

通訳を通し、様々な練習法を体験させて頂けることで、

 

「このやり方じゃないと、絶対いけない」というような、

 

ヨガの練習者としての、ヨガの練習法に対する、おかしな執着を、

持つことがないように、導かれているような気がします。

 

 

何を行うにしても、

 

生きること、そのものにしても、

 

喜びと祝福をもたらすはずのものが、苦しみになりませんように。

 

 

ヨガが喜びをもたらしてくれると感じる時、

 

それは、自分がそのままの自分で、かまわなくなった時です。

 

そうすると次第に、ヨガさえも、

 

あってもなくても、かまわなくなってくる。

 

まるでヨガの練習がマット上から人生そのものへと、広がったかのようにね。

 

 

at 00:30, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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