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ヨガは自分と向き合う作業場

時々、立ち止まることが大切です。

 

立ち止まることで、顧みることが、可能になります。

自分の思考、感情、行為を、顧みるのです。

 

口の中が苦くなるような、

自分でも、あまり好ましくない、見たくないような、

自分の姿があります。

 

私たちは、

危険だと感じると、

自己防衛する思考や、感情という、鎧を身に着けます。

 

ともすると、攻撃的、批判的にさえ、なってしまうのです。

それを、表現する場合も、しない場合も、

攻撃的、批判的になっているということには、変わりありません。

 

そんな鎧を着けて、しばらくは、生きていくかもしれませんが、

 

あまり、楽しくないはずです。

 

先人たちは、

自分が内なる平穏と触れ合っている時には、

あるがままの世界が、完全なるものだということが、理解できると、教えています。

 

 

「人のためになりたい」、

「人を助けたい」という気持ちは、それだけで価値があり良いことですが、

 

私たちが最初に行わなければならないのは、「自分が平穏である」ことです。

 

自然の中にいると、幸せな気持ちになります。

森の緑や海の波や、真っ青に広がる空を見ると、心が洗われ、

自然の美しさや優しさに包まれる幸せを誰もが感じるでしょう。

 

混沌とした日常がどれだけ純粋でないものかを、

穏やかな自然の中で思い知らされるのです。

 

だけど同時に、

自然とは、災害をもたらすものでもあります。

命を奪うものでもあるのです。

 

自然が持つその極性、

命を生み育み、そしてその命を奪うという姿を、

私たちはどのように、受け止めているのでしょう?

 

 

「自分が平穏である」ということは、

「いつもハッピーである」こととは、違います。

 

大自然が命を産み、命を奪うように、

私たち人間も、優しさと残酷さ、穏やかさと激しさ、喜びと悲しみを持っています。

 

「自分が平穏である」ということは、

優しさ、穏やかさ、喜びというような、プラスの方向のみに傾くことではありません。

 

またプラスもマイナスもない中庸な状態(波のない状態)に近づくために、頑張ることでもありません。

(ましてや、そんな「振り」をすることでも、ありません)。

 

私たちも自然の一部として極性を持っていることを、

そのままの姿を、「受容する」ことで、

 

穏さがは「自然に起こる」のであって、

それは、「起こすもの」ではないのです。

 

誰かを癒していくことは、

自分と向き合う作業から始まります。

 

自分に正直でありたいのです。

 

今まで自分は自分に対して、

人生に対して、どんなあり方をしてきたのかということを、

恐れず、

見つめていくことで、

場合によっては手放さざるを得ないことがあるかもしれません。

 

それは物だけではなく、考え方や、アイデンティティの場合もあります。

 

この旅路の扉を開くのには、勇気が必要です。

まだその旅を始める準備ができていない時に、

無理に歩むことなどする必要はありません。

 

ヨガの練習をしていくことで、

「もうこれ以上、自分を欺くことはできない」と感じ始めることがあります。

その時、私たちは古く役に立たなくなった習慣を、自然に手放していけるようになります。

 

その道のりの中で、

必ず、「顧みなければならないこと」があります。

私の先生が言いました。

「ヨガとは、問題に飛び込んでいくことだ」と。

 

その作業はイニシエーションであり、

私たちはそんなイニシエーションを通して、どんどん、自由になっていきます。

時間のかかる作業かもしれないけれど、価値のあることです。

 

 

at 22:45, shakti-mandir, 1. スタジオお知らせ/ Studio Announce

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