カルマとリラ

「これをしなければならないとか、あれをしなければならないとか、

あそこに行かなければならないとか、彼に会わなければならないとか・・・」

 

そんな日常のやらなきゃならないこと達が、緊急性を問わなくなる。

 

あれもこれもと慌てながら生きるのではなく、

人生で起こってくる出来事に対して、

その都度、穏やかに対応できるようになる。

恐れることなく、

瞬間瞬間を満喫しながら・・・。

 

夢を見ながら、同時に覚醒した状態であることはできるか?

Yes.

 

(すなわち)、

あなたの人生という物語の中で、その物語の中に存在しながら、

同時にあなたは、

”はじまりや終わりのないものの一部”

だということに、

気づきながら生きることが、できるのです。

 

ヨガとは、その、

「はじまりがなく終わりがないもの」とは何かを、

見つけるための旅路なのです。

 

(Steve Ross "Happy Yoga"より)

---

 

昔、会社勤めをしていた頃、

ひとりの上司が、

人生計画を立てる重要性について教えてくれたことがありました。

 

ある人が、

自分が何歳の時には何をしているか、という、

長期的な計画表を作っていて、

それによって、目的意識を持って生きている、

成功率が高まる、

というような、話だったような気がする。

 

行き当たりばったりで生きていた私は、

やばい、私には何の計画もない、と思ったものでした。

 

それから、

自分の年齢と子どもの年齢を合わせながら、

自分もざっくりだけど、計画みたいなロードマップを作ったりした。

 

それが助けになったこともあったし、

そうでなかったこともあった。

 

今はというと、

計画は、短期のものしか立てない。

そして計画通りに人生は進まないと、人生に教えてもらった。

 

ヨガ哲学には、

カルマの法則というものがあって、

それは原因と結果の法則であり、

行為には必ず結果がついてくるというような考え方。

 

今の人生でかえって来なかった結果は次の人生でかえってくる、

みたいな感じで、

輪廻転生につながる思想だけど、

 

ややこしいことは置いておいて、

 

普段の生活でも、

行動には結果が伴うことは、私たちも良く知っている。

 

歯磨きすれば、虫歯にならない。

歯磨きしなければ、虫歯になる。

みたいに。

(すごく安直な例だけど)。

 

 

ヨガをしている人たちで、

「流れにのって、なるように任せて生きている」

タイプの人たちは、

 

自分で稼がなくても誰かが稼いできてくれる環境にあるか、

ひとりで稼いでいても養う家族がいなくて、

それほど収入がなくてもやっていける人々ばかりです。

 

「自然に任せましょう」

 

というのは、

放っておいても、どうにかなる、というスタンスでの意見です。

 

優雅に、流れるままに、というのを、

"go with the flow"

と英語では表現します。

 

でも、

もしも明日自分の家に抵当権がついてしまうような状況だったり、

明日のご飯代もないような状態になったとしたら、

きっと、

go with the flow

とは言っていないかもしれない。

 

代わりに、

「どうにかしないと!」

と言っているかもしれない。

 

私たちは、自分が言える言葉は、

必ず、

自分たちが置かれた環境があるからこそ、

言える言葉であると知っている方が良い。

 

 

流れに乗って、流れに任せて、

ということだけでは、

生きていくことが困難かもしれないという状況の人たちは、

 

ヨガの指導者でも、

計画を立てて生きている。

「流れ」を自分で作っている。

 

 

今この仕事(ヨガの指導)をしておいて、

次にこれにつなげて、

それが収入になる、わけである。

 

これは、

歯磨きの例と、さほど変わらない。

 

カルマ(行動)に、結果がついてくる。

 

でも、

バガヴァッドギータが言っているように、

結果をコントロールすることはできない。

 

どんな結果になるかは、神のみぞ知る、だけれど、

ある程度のことをしておけば、

推測はつく。

 

スタジオ経営をしていて運営が危うくなった時に、

チャクラ瞑想をして経営がうまくいくと信じる人は、

経営破綻するだろう。

 

スタジオ経営をしていて運営が危うくなったら、

それを立て直すための戦略とマーケティングを考える。

しかも、早い時点でそれができる人は、

長期経営をしていけるだろうし、

「臨機応変」に対応できるであろう。

 

 

「臨機応変」と書いたが、この言葉が、好きです。

 

ヨガ哲学では、

原因があるから、結果がある、という考え方と、

物事は、ランダムに起こる、という考え方が、

混在しているような気がする。

 

ランダムに、

青天の霹靂、のように起こってくる方の出来事のことを、

ヨガでは、

リラ、という。

 

英語では、

"out of the blue"

と表現する。

 

日本語では、

「予期しなかった出来事」

と言うかもしれない。

 

 

シャンカラという人は昔々、

人は、「知識の不在」があるために(無知)、

真実をありのままに見ることができない、

と言った。

 

そんな「幻の世界」、

幻想に惑わされることを、

マヤという。(仏教用語)。

 

 

予期せぬことが起こり、

それが悪いことであると、

私たちは神に祈るかもしれない。

 

幻想の中で、助けを求めるかもしれない。

 

しかし、目覚めた人は、

それが幻想だと知っている。

目覚めた人にとっては、

幻想ではなく、真実が見える。

幻想では蛇に見えた物が、実際はロープであり、

恐れる対象ではないと知っている。

 

だから、マヤの原因は、「知識の不在」にあるとした。

 

 

それに対して、

タントラというタイプの思想をした人々は、

人生で起こってくるすべてのことを、

神聖なものだと捉えていたので、

 

幻の中で生きているそのこと自体も、

無知なのではなく、

それ自体があるがままの真実、神聖なもの、だと、

マヤさえもを、肯定的に受け入れている。

 

 

そうすると、

幻みたいなもの、

人生の予期せぬ側面に振り回されていること自体が、

「神の戯れ」、

神様の遊びごごろのように、捉えられるようになる。

 

すると、マヤがリラになる。

 

さて、

人生を生きる時に、

誰もがきっと、

必要なだけの計画を立てるでしょう。

 

計画を立てて、

それにそってある程度の結果が得られたら、

それはそれで、良いこと。

 

だけど、

計画通りに行かなかった時、

神の戯れとダンスするように、

「臨機応変」に、

優雅なダンスを踊るように、

 

計画とは違う方向に、

方向転換することが、容易にできるだろうか?

 

または、

あえて計画を立てずに、

オープンの状態で、

神の戯れのみに、

身をゆだねてみる、

勇気がありますか?

 

 

人生には、

色々な生き方があるし、
 

少なくとも私たちは、

ある程度、

自由に生き方を決められるような、

幸福な環境下にある。

 

年齢によって、

おかれた環境によって、

カルマの法則的な生き方をするとき、

リラと優雅にダンスするとき、

その両方を上手に使い分けたり、

その両方を同時にいったりきたりすることができると、

 

人生はもっと、楽に流れていくのではないかな。

 

そして、

様々な「体験」をするために、

私たちはこの体を与えられた。

誰もが、限られた時間しか持っていない。

 

その体験を通じながら、

ヨガは、

「はじまりもなく終わりもないもの」とは何かを知る旅路である。

 

そこに触れ合えた少しの瞬間でさえも、

それは、私たちに恍惚感と謙虚さをもたらしてくれるような、

それは、絶対的な体験なのだろう。

 

 

 

at 17:16, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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あなたは体ではない "You are not your body"

ヨガの世界では、

色んな体のとらえ方をします。

 

例えば、

「粗大身」というのは、

触れて感じることのできる、

肉とか、骨とか、粗大な体のことを言います。

 

「微細身」というのは、

目に見えない体のことで、

感情や記憶など、粗大身よりももっと繊細なもののことを指します。

 

これ以外にも、色々な体の味方があります。

 

肉体を乗り物に例えるなら、

その乗り物が走るのに必要なガソリンが、

食べ物だったり、

電流が気(プラーナ)に例えられたり・・・。

 

私たちが生きていて、

色々な活動をする舞台となるのは、

まずは粗大身であり、

 

体がなければ、

今こうやってパソコンを打つこともでいないわけで・・・。

 

ヨガの先人たちはでも、

「あなたは体ではない」

と言ったりもするのです。

 

肉体は、変化するものである。

病気にもなるし、いつか、命がなくなったら、

今当たり前のようにあるこの体も、

分解されて、なくなってしまう。

 

例えば、

10歳の時の自分と今の自分はまったく同一ではないように、

 

今、今の自分と自己同一していたとしても、

20年後の自分はまったく違う者である。

 

そういう意味で、

あなたの本質は、体ではない、と、ヨガの先人たちは言っている。

 

 

体を乗り物に例えた時に、

そこに命のエネルギーが宿り、

乗り物は動くことができるようになります。

 

でも、

いかに動くか、

どこへ行くか、

は、

誰が決めるんでしょう?

 

それはそれぞれが生きる態度として決めることであり、

自分にも、

自分以外の人にも、

可能な限り、

祝福を与えられる、喜びを与えられるような行動、思考、生き方をするのは、

これは、

訓練である!

 

前のブログから引き続き、

所々書いているけれど、

私が今年の4月にステロイド皮膚炎と診断されて、

もうすぐ3ヶ月が経とうとしています。

 

3ヶ月経って良くなったところはありますが、

まだまだ、普通に生活できておらず、

ヨガの指導や通訳はいつもよりも量を少なくしてやっていて、

日常生活は、

色んなことをするのに、

今までよりも、よっぽど時間がかかってしまう。

 

特に朝はなかなか思ったように動けない。

 

嗚呼、リウマチの生徒さんは朝にヨガができなかった。

症状は違うけど、自分も同じように、

当たり前にできてたことが、まだしばらく、できなさそう。

 

ヨガの練習も、今までの半分くらいしかできておらず、

瞑想も、ほとんどできていない。

 

私の命の舞台である粗大身は、

今までの舞台とは、ちょっと違ったものになってしまっている。

 

そんな時に、

私の先生も、それ以外の先人たちも言っていたように、

 

You are not your body = あなたはあなたの体ではない

 

という言葉を、思い出すのです。

 

それは、慰めという意味で、思い出すわけではない。

 

その言葉を、改めて、考えてみるのである。

実際に初めて、きっと、その言葉が、現実味をもって、感じられるからである。

 

たまたま40台半ばで、

こういった、

体が思うように動かないという経験をしているのだが、

 

医者によると、半分くらいは良くなっている、と言うし、

多くの臨床例を見ても、いつか回復することである。

 

だけれど、

この先、生きていたら誰もが、

必ず、衰えていく。

 

それは、ほとんどの場合、「病」という形で、訪れる未来だ。

 

そして場合によっては、回復しない病もあり、

死が誰にでも訪れるということが真実であれば(!)、

(往々にして、私たちはそんなことは忘れて生きてるのだが)・・・

 

生きるとは、

死に向かう旅路でもある。

 

 

ヨガの先人たちは、

あなたは体ではない、と言う。

 

でも、そこに流れるエネルギー、

微細なもの、

アストラル体は、

波動として、死んだあとも、存在し続けるというのです。

 

このコンセプトって、なかなかピンと来ないかもしれない。

 

でも、

世の中すべてのものは、本当に「波動」でできているらしい。

 

量子レベルの世界で、物質をどんどんミクロの世界にして見ていくと、

波動と粒子になり、

 

難しいことは私はあまり理解してないけど(笑)、

 

最終的に、そこには、空間しかない、スペースしか残らないということが、

科学的にわかっている。

 

この世界のすべてのものが、波動でできている。

 

それは、思考や感情や記憶も含めて。

(脳の中で起こっていることも、電気信号のようなもので、波動である)。

 

 

例えば、

怒った人が部屋に入ってくると、

部屋が暗いムードになる。

 

ハッピーな人が入ってくると、

部屋が明るいムードになる。

 

こんな安直な話ではないかもしれないけれど、

 

私たちが持っている波動は、

肉体がその場を去った後でも、

そこに、残る。

 

 

これは私の勝手な感覚で書いているが、

波動は、伝わるものであり、

粗大身がなくなってしまってからでも、

微細身の波動が残るとすれば、

その残された波動は、

この世界のどこかに宿る、ように理解することもできて・・・。

 

 

すると、

「あなたは、どんな波動を、この世界に残したいですか?」

という問いが、生まれてくる。

 

 

話が戻りますが、

粗大身は変化する。

 

私たちが今、あったり前のようにできていること、

それは、ヨガのポーズも含めて、

が、

できなくなる日が来るかもしれない。

 

その時、どうあるか。

どうあることができるか。

 

心のヨガ、なんて言葉を聞いたことがあるけれど、

粗大身が舞台とならないヨガの練習って、

それはそれは、

これまた安直な言葉で書きますが、

「深い」ものだと思うのです。

 

 

ここまで書いてきて、

すべてを要約してみますと、

 

病を患って、わかったことが沢山ありました。

 

ということが、書きたかった。

 

私のクライアントは、

ほとんどの人が、

いろんな疾患や、

人生での問題を抱えている人ばかりで、

 

私はわからないことは、わからない、と言っていたし、

辛いですよね、ということも、

言わない主義だった。

だって、その人が感じていることは、

わからないから、

わかった振りは、したくない。

 

でも、今、ちょっとそういう辛さや、

どうしても、生き方を変えざるを得ない状況になった人たちの心が、

わかるようになりました。

 

そして、「希望」を持つことの大切さも。

そしてそして、ヨガは、ポーズの練習ではなく、

ポーズができなくても、

やっぱりヨガは、誰にでも、開かれているということ。

 

私のヨガの先生は、

粗大身は、

生きているうちは、

いろんな精神性を高めるための土台でもあるから、

大切にしなさい、とも言っている。

 

だから、運動(ポーズ)したりして、

ちゃんと動くようにしておこうね、と。

 

なので、粗大身が動く間は、

私もそうだけど、

皆さんも、

その体を大切にしましょ。

 

でも、

同時に、

私たちは、体ではない、のかもしれません。

実際に、10年後に同じ自分はここには存在しません。

私が自分の子ども達を見るときも、

彼らはいつまでたっても私の子どもであると同時に、

8歳の頃の彼らと、18歳の彼らとは、

まったく別人であり、

8歳の頃の彼らには、

二度と会うことができません。

 

 

そう、体も諸行無常の一部です。

あらゆるものが、変化をし、

何ひとつ、

確実なことは、ありません。

 

だからこそ、

その不確実な、

推測不可能なこの世界で、

何かが起こった時に、

自分が、どうあれるか。

どんな態度で生きるのか。

どんな波動を伝えるのかが、

きっと、もっと大切になってくる。

 

at 20:32, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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カルマ

「カルマ」と聞くと、

何かちょっと、怖い感じがするかもしれませんが、

「カルマ」というサンスクリット語は、

「行動」という意味で、

何も恐ろしいことでは、ありません。

 

ではなぜ、カルマに怖いイメージがあるかと言うと、

「自分が起こした行動には、”結果が伴う”」という、

因果応報、「カルマの法則」という考え方が、あるからでしょう。

 

例えば、

悪い行いをすると、その結果、悪いことが必ず自分に返って来る、というような・・・。

または、良いことをすれば、良いことが、自分に返って来るよ、みたいな。

 

人は、生きている間に、

多くの行動(カルマ)を起こすので、

カルマの法則に従えば、

その結果がすべて、自分に返ってくるはずなんだけど・・・。

 

行動を起こしても、

すぐに結果が返ってこなかったら、どうなるのか?

 

今世で自分に返ってこなかったカルマというのは、

どうなるのか?

 

それは、

「次に生まれ変わったときに、返ってくる」

と、カルマの法則は、教えています。

 

だから、

今世で、良い行い(カルマ)をしておいて、

次に生まれ変わった時に、

悪いものが返って来ないようにしておかなくては、なりません。

 

 

インドには、カースト制度あって、

生まれた身分は、変えられなかったそうです。

 

その身分で暮らしながら、

「悪い行い」をすると、

悪いカルマの結果が、次に生まれ変わったときに、返ってくる。

 

それは、もっと低い身分になることかもしれない。

 

少なくとも、良い行いをしていたら、

同じ身分に生まれ変わることができるんだから、

生まれた身分に文句を言わず、

良い行動(カルマ)を行っていきなさいね・・・。

 

そういうふうにも、カルマの法則は使われています。

 

宗教や哲学は、

政治や生活と深く関わっていて、

民衆を支配、コントロールするのに、

便利に活用できるようになっている。

 

 

ヨガ哲学で話題となる「バガヴァッドギータ」でも、

 

神様であるクリシュナが、

兵士のアルジュナに、

「自分の役割(ダーマ)を全うしなさい」、

と、何度も諭している。

 

つまり、

アルジュナという人は、

カースト制度における、

クシャトリヤ(軍人階級)として生まれたのだから、

その階級の人がやるべきこと、

「戦うことが、ダーマ(役割)」だと諭しているのです。

 

アルジュナには、他の選択はありません。

そういう、カーストに生まれたのだから。

 

バガヴァッドギータの読み方は色々あるけど、

神聖なる書物、と考えられつつも、

こういった「人種差別」が背景となっているところは、

あまり、指摘されない事実でしょう。

 

 

(私が一緒に仕事をさせてもらった哲学の先生方とは、

こういう話も時々するのですが・・・)。

 

 

バガヴァッドギータの中で、

アルジュナは、何を心配しているのか。

なぜ、戦いたくないのか。

 

それは、

敵軍には知り合いがいるから、

その人たちを、殺すことなんて、したくないから・・・。

 

そして、

そんな行動(カルマ)を起こしたら、

その行動(カルマ)の結果が、自分に返ってくる。

それが、怖い。

 

 

インド哲学で、

カルマ(行動)の結果のことを心配するのは、

 

もちろん、生まれ変わった時に、

悪い結果を受けたくないからでもあるけれど・・・、

 

最終的には、「解脱」したいから。

解脱をすると、死んだあとに、この世には戻って来ません。

 

解脱をするためには、

輪廻転生(サムサラ)を止めないといけません。

 

では、

輪廻転生をどうやって止めるかっていうと、

日々の行動の中で、

できるだけ、

サムスカーラ(行動の結果生まれる印象)を残さないように、

行動しなければなりません。

 

なぜなら、

サムスカーラがあると、

無意識に、

また、同じような行動(カルマ)を起こし続け、輪廻を繰り返すからです。

 

だからクリシュナは、

結果に囚われず、ただ行動を起こしなさい、言います。

 

・・・

 

人種差別も含めた背景の中、

輪廻転生や、カルマの法則が、語られてきました。

 

前世があるのか、

死んだらまた、生まれ変わるのか。

 

人が信じることは、

必ずといって良いほど、バイアスがかかっている。

(偏っている、ということ)。

 

自分の生き方や考え方を、

都合が良い方に、サポートしてくれることを、信じている。

 

サンタクロースは信じていないけど、

輪廻転生は信じるという人も、いるかもしれない。

 

だけどどちらも、

証明、できないものだ。

 

どっちか片方を信じるっていうのは、

自分が信じたいから、

信じているのであって、

それが、真実だとは、限らない。

 

人は、自分の生き方や考え方を、

都合が良い方に、サポートしてくれることを、信じている。

 

今の自分の苦しみや、悲しみを、

説明してくれるような、

理解させてくれるような、

魔法みたいな話を、

信じたい。

 

それは、助けになる(ように感じる)からだ。

でもそれが、真実だとは、限らない。

 

 

at 21:12, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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バガヴァッド・ギータ のタントラ的な理解 with カルロス・ポメダ

7月15日~7月17日まで、

カルロス・ポメダ先生の、ヨガ哲学の通訳をしていました。

 

今回は、バガヴァッド・ギータの3日間でしたが、

これを、「タントラ的に」読解するというもので、

とても難しい内容でした。

 

バガヴァッド・ギータでも、ヨガスートラでも、

理解の仕方は、色々あるのだということ。

 

これは、こういった聖典に対する注釈が、

様々な人によって寄せられているからであり、

誰の注釈を参考にするかによって、理解の仕方が変わるのですね。

 

10世紀、

Abhinavagupta(アビナバグプタ)というタントラ哲学者も、

バガヴァッド・ギータの注釈を書きました。

(Gitartha-Samgrahaと言う校訂本)。

 

今回のクラスでは、

彼の注釈を参考に、

 

タントラ以前の古典的なヨガと、

タントラ的なヨガの見方を、

バガヴァッド・ギータを通して、

比較してみる、という、ワイルドな内容でした!

 

バガヴァッド・ギータは、

誰でもヨガを行えるとか、

満ち足りている人にとっては、ヴェーダも必要ない、と述べた点などで、

もうすでに、画期的な内容、だったのですが、

 

それをのちに、さらに、タントラ的に読み解いたアビナバグプタは、

特記するべき、タントラ哲学者だったようです。

 

3日間、それは多くのことを学び、瞑想テクニックも紹介されていました。

 

古典的なヨガと、タントラ的なヨガの違いは、

ひとことで言うと、

古典的なヨガが二元論的な練習法であり、

タントラヨガは、非二元論である、というところ。

 

どちらのヨガのスタイルも、

「自由になる」ために、ヨガを行うのですが、

 

古典的な方は、

そのために、「世俗を捨てて、高次なところへ到達しましょう」と教えます。

出家とか。洞窟へ行って瞑想したり・・・。

で、

変化し続ける世界(プラクリティ)に振り回されるのではなく、

普遍的なもの、神聖なるものの側(プルシャ)に、留まりましょう、

と言って、

体、心、感覚、を制御(コントロール)しようとします。

体や心は低次なもので、もっと高次へ行かねばならぬ、と、二分化するので、

二元論、と言います。

 

一方、タントラは、

いえいえ、そうではなくって、

世俗社会も、体も、変化するものも、

それが、それ自体で神聖になり得るよ、という考え方。

高次、低次と分けない、というところで、非二元論。

 

でも、このプラクリティ(変化する世界)を、

神聖なものとして、

練習の舞台のために使っていくには、

自分の意識が、しっかりそれを、認識していないと、無理ですよ。

そうじゃないと、結局、

日常の変化に、振り回され、「闇」に生きてることになるからね、

そして、闇とは、無知、のことですよ、

と教えます。

 

 

おおざっぱな説明ですが、

 

タントラ的に練習をするために、2つのキーワードがありました。

 

どんな時も、いつでも戻って来なさいねというポイントが、この2つの言葉。

・Jnana(意識)と

・Kriya (行為)。(この場合、カルマではなく、クリアです)。

 

この言葉を、

プルシャとプラクリティに宛がうなら、

 

Jnana(ニニャーニャ)= 意識が、プルシャ(変わらないもの)、

Kriya(クリヤ)= 行為が、プラクリティ(変化するもの)。

 

そして、いつでも、

Jnana(意識)の方が、より大切だということを、

覚えておきなさい、という、教えでした。

 

古典的なヨガの場合、

変化する俗社会というのは、ダメなもの!でしたが、

 

タントラ的な考え方は、

俗社会も、全然問題ないよと。

俗社会で行動することも、ちっとも問題ないし、

それを使って、ヨガの練習をすれば良いよと・・・。

 

そのために、日々の行動(Kriya)を起こす時、

常に、Jnana(意識)と繋がっていなさい。

(観察者でいなさい、無意識に反応しない状態でいなさい)。

 

それは、

ギータの中に出てくる、

ニニャーニャヨガ、カルマヨガ、バクティヨガでも、

すべて、この教えに、戻ってきなさいと、

何度も何度も、協調された箇所でした。

 

 

その他、覚えておきたいサンスクリット語が、いくつかあったので、

ここに書いおきたいと思います。

 

● Mukti(ムクティ) --- 瞑想のような状態、自由な状態

● Bhukti (ブクティ) --- 瞑想してない日常の状態、楽しみ

 

Muktiは、練習。例えば、一日、1時間の瞑想。

それ以外の時間は日常生活で、Bhuktiですが、

タントラでは、

Muktiも、Bhuktiも、どちらも神聖な練習であることができるとし、

3つのグナ(変化するもの)もあってオッケーとしている。

 

 

● Apavarga(アパヴァルガ)--- 目覚めを垣間見る。

瞑想をし、日常生活も瞑想的に生きるようにすると、

時々、さとりを垣間見る(ちょっとだけ体験)することができる。

そのちょっとだけのさとり体験のことを、Apavargaという。

 

 

● Anugraha (アヌグラハ) --- 与えられたもの。いつもそこにあるもの。

英語では、Grace(グレース)と言うけれど、

常に、大いなるもの、神聖なものが、そこにある、というような、感じのこと。

 

 

● Karma (カルマ) --- 行動

● Karma-Phala (カルマ パラ)--- 行動の結果、実る果実のようなもの。

 

 

● Manas (マナス)--- マインドにおける、心の部分。 

● Buddhi(ブッティ)--- マインドにおける、知能/インテリジェンス/思考の部分。

サンスクリット語では、マインド(心)を、この2つに分けて考える。

 

 

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とても濃厚な3日間でしたが、貴重な時間でした。

北海道のお友達も参加していて、最終日は楽しく夕飯もできたし!

 

 

教えに基づいた瞑想テクニックは、色々あるけど、

テクニックによって反対に、迷ってしまわなように・・・。

 

教えはあったとしても、

何よりも・・・

 

そのままの自分で良いと気付くこと、

他の誰かになる必要もなく、

もっと良いものになる必要もなく、

別のどこかに到達しようとしないことが、

自由の「鍵」になるかなと、

個人的には、感じています♡

 

 

at 21:50, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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安定しようとすることなかれ

「方法論としてのヨーガを超え、すべてのものから解放されましょう。

 何もかも、良かれと思ったことも、捨ててしまいましょう。

 必要不可欠だと思った時点で、すべては障害となってしまうのです。

 意図的に捨てるのは無理かもしれません。

 けれど、自分にとって、もはや意味を成さないのであれば、

 おのずと姿を消していくはずです」

(「ヨーガの真実」マーク・ウィットウェルより)

 

 

世の中には、確実なものは、ひとつもありません。

唯一あるとすれば、

この世は不確実で、常に変化していて、安定しているものなど、ひとつもない、

ということのみが、確実な事実でしょう。

 

そんな不安定な世界の中で、

人は、

安定したい、

安全でありたい、

と願いながら生きています。

 

でも、

「確実な安定や、安全なんて、絶対にあり得ない」、と気づいたとき、

色々なものが、剥がれていって、

 

そこには・・・、楽がある。

 

人は、暮らしの中で、

住処(すみか)や、

パートナーや、

家族や、

仕事、

を通して、

 

安定を求めるし、

安定が得られたら、その状態を、変えたくないと思う。

 

そのために、みんな、すごく頑張っている。

 

でも、変わらないものなんて、ひとつもないし、

変わらない人なんて、ひとりもいない。

 

変わっていくものを、無理に変わらないようにしようとすればするほど、

どんどん、苦しくなっていく。

それでも、一度手に入れた安定は、手放したくないから、

必死になって、しがみつく。

 

「”必要不可欠”だと思った時点で、すべては障害になる」

ああ、その通りだと、

夜空を見ながらの散歩途中、体全体で、じわりと感じたのです。

 

 

ヨガの指導者であるマーク・ウィットウェルは、

「良かれと思ったことも、捨ててしまいましょう」と言っている。

 

私の先生であるスティーブ・ロスも、同じようなことを言っていた。

「学んだことは、巻き戻して、捨てなさい」みたいに。

 

何か良いものであったにせよ、

それらが、自分に「安全」や「安心」を与えてくれていたものだったにしても、

いつしか、そういったものたちも、形を変えたり、自分のもとを去っていったりする。

 

これは本当に、自然な姿なんだよね。

 

そして、私たちが、「今」、「ここ」にいて、

大地を踏みしめる時、

 

生きるということが、

いつもよりも、少し確実に思えるのは、

 

「必要不可欠」だと思っていたものが変化したり、過ぎ去ったりしていっても、

ここに生きて、歩んでいくことができるという、

その力が、私たちには、与えられていると、気づくからかも知れません。

 

その時心が、楽になる。

 

そしてそれが生きることに「しっくり」くる瞬間で、

この「しっくり」という感覚は、

何かを失わないために、闇雲に未来の計画を立てている時には、

決して感じることは、できません。

 

 

 

 

 

at 21:12, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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陰ヨガと瞑想のワークショップ: サムスカーラとカルマのサイクル

今日2月27日は、陰ヨガと瞑想のワークショップを開催しました。
12名の方々と、静かに座り、静かにポーズを取る時間が持てました。
クラスの最初に、サムスカーラの話をしました。
少し難しかったかもしれないので、ここにも書いておこうと思います。

「サムスカーラ」は、ヨガをしているとよくテーマになるキーワードです。
サムスカーラとは、あらゆる行動の残像のようなものですが、それは「記憶」ではありません。

私たちは同じようなことを繰り返しながら生きていて(良いことも悪いことも)、
それはサムスカーラ(過去の出来事の印象)があるからだと言われています。

過去に起きたことと似たようなことが起きると、
その印象が無意識のうちに心の中で目覚めて、
過去にとったアクションと同じようなことをしてしまう。

サムスカーラは自然なもので、なくなることはありません。

私たちは無意識に生きているので、
サムスカーラたちに振り回されながら、
同じことを繰り返し・・・
同じことで喧嘩したり、同じような負の思考や人間関係を繰り返したりします。

サムスカーラが良い習慣として機能している時は、
例えば歯磨きやヨガのように、居心地良いものとして、日々繰り返されるパターンもあります。

でも、
負のサイクルとして繰り返されるサムスカーラに振り回されることは、やめたい・・・。

だけどそれは、どうしたら可能なのだろう・・・。

サムスカーラは「カルマのサイクル」の一部だとされています。
カルマのサイクルとは・・・
● 行動(カルマ)
  ↓ 
● 行動の印象(サムスカーラ)
  ↓
● 傾向(ヴァサナ)
  ↓
● 思考パターン(ヴリッティ)
    ↓
●  行動(カルマ)
というもの。

● カルマとは・・・
あらゆる行動のことです。

● サムスカーラとは・・・
あらゆる行動のあとに心に残る印象のことです。
それはどんな行動だったのかが記憶から消えてしまっても、「印象」として残り続けます。


ヴァサナとは
サムスカーラから受ける影響のことで、「傾向」のようなものです。
サムスカーラから作られてしまう傾向です。
サムスカーラ(過去の印象)が目覚めると、
頭の中で、「こうしたい!」という欲求や気持が生まれます。
サムスカーラとは違い、ヴァサナの傾向には「気が付く」ことができます。


● ヴリッティとは
私たちのもつ傾向(ヴァサナ)が思考パターンを作ります。
その思考パターンのことを「ヴリッティ」と言います。
思考は自分がどうしたいか、という傾向(ヴァサナ)から生まれてきます。
思考は自分がどうしたいのかという欲望をサポートしようします。
このような思考パターンが、私たちの生き方や、考え方を決定します。


● 再びカルマに
思考パターン(ヴリッティ)がきっかけとなり、私たちは再び行動を起こします。


私たちが行動を起こすのは(=カルマ)、

心がそうしろと言うからであり(=ヴリッティ)、

心は私たちの傾向や欲望を満たすためにそうしているのであるが(=ヴァサナ)、

その傾向や欲望というのは、過去に起きた出来事の印象によって生まれる(=サムスカーラ)。

こういったサイクルを「サムサラ」と言って、
輪廻転生を信じている人は、
前世からのサムスカーラまでが、
今世の自分の行動を支配している、と考えるようです。
だから、このサイクルから逃れるために、
いろんな修行をするのでしょうが・・・。

前世とかって話になると、わたしはよくわからないので、
正直前世はどうでもいいやって思っています。

でも現状生きている日々で、
サムスカーラがあることを知っているのと、知っていないのとでは、
大きな違いを生む、と確信しています。

サムスカーラは、あらゆる行動を起こすたびに、自動的に作られてしまうので、
それをコントロールすることはできません。

わたしたちにできるのは、
「サムスカーラに振り回されないようにすること」だと言われています。

ヨガや瞑想の練習をすることで、
カルマのサイクルにおける、「ヴリッティ」に気が付くこと。
つまり、思考パターンに気づくこと。

ヨガは自分ひとりで練習をし、その結果を自分で見つめる練習でもあります。
ヨガの練習や瞑想をすることで「思考パターン」を知り、サムスカーラがあることに気が付き、
なるべく、振り回されないように、生きていくこと。

でも、サムスカーラの種は、忘れたころに目覚めるので、
これは長い旅路だんだけど・・・。
一生あると思えば、気長にできますね〜〜。

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参考にさせて頂いたサイト
http://adityadham.com/aditya/samskara.htm

at 01:22, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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瞑想をしよう!

いま、手放すこと、とか、執着をしないこととか、
本当は自分が愛されている存在なんだと知ることが大切と、
色々なところで言われる時代になりました。

その反面、私たちが生活している社会では、
志望校に何が何でも合格することとか、
好きな相手と結婚することとか、
お金儲けをすることが大切であり、
少しでも怠けると、「サボっている」と言われるかもしれないと恐れ、
恋人に振られたら一生結婚できないかも、と不安になり、
大学に受からなかったら就職先がない!と親に怒られます。

頭の中では、「こうしなきゃいけない!」と思考の声がしていて、
その思考に振り回されて、疲れ果ててしまいます。
そして自己嫌悪に陥ったり、自律神経のバランスを崩したりします。

そうするとカウンセリングとか、ヨガのクラスなんかで(笑)、
「手放しましょう」とか、
「そのままの自分でもあなたは愛されているのです」とか、
ラジャス(勝利をつかめ的)な社会とは反対の、サットヴァ(純粋)なことを言われます。

そうか・・・、と、その時は思うわけです。

だけど思考はそんなに簡単に活動をやめません。
カウンセリングやクラスの中であんなに大丈夫だと思っても、
頭は、「何かのきっかけ」があると、心配事や、気になる出来事、過去の失敗、将来の不安など、
同じことをぐるぐるぐるぐる、考え始めるわけです。

こうゆう、思考の性質を知ることは、本当に大切だと思います。
とにかく、止まりません。
この、止まらない系の、答えが出ない系の思考を、仮に「無駄思考」と呼んでみましょう。

思考って全部ダメなのかというと、そうではありません。
例えば、効率的に、論理的に、合理的に、何かを考えることができることって、必要です。
このプロジェクトをいつまでにどうしたら終わらせることができるか、とか、
明日何時までにどこへ行くからどの電車に乗るとか、そういう「便利思考」もあります。

さあ、私たちの頭の中には、
「無駄思考」と「便利思考」があることを、知っておきましょう。
そして、「無駄思考」の声は、聞くな!と言いたいですが、そんなに簡単にはいかないのですね。
だから(私も含めて)みんな、悩みます。普通に。



また、思考は、「何かのきっかけ」があると同じパターンで起こるということも、
知っておくと便利です。
この言葉を聞くと悲しくなるとか、あんな態度をされると腹が立つとか。
そうすると、感情ボディが反応し、むちゃくちゃ悲しくなったり、不安になったり、怒れてきたりします。

だけど、その原因って、その時点で起こっていることが「きっかけ」かもしれないけど、
真因はだいたい「過去の出来事」だったりします。

「あ、前もこうだったから、またこうなる」
とか、もっと辿っていくと、親にやってもらえなかったことを、無意識レベルで思い出したりしていて、
その時の感情が泣いたり怒ったりしていることが、多いのです。

いま起こっていることの結果が、「あの時と同じ」になると限らなくても、
前そうだったからそうなるに違いない!と思ってしまうと、
過去の思考から言動が起こり結果を決定してしまうので、
「やっぱり」という結果を、自分が知らない間に招いてしまっている、かもしれないのですよ!


なんてことを知ったからといって、思考を止められるわけではありません。

だけど意識し気を付けていると、同じ思考パターンが「あ、また始まった」と気付くことはできます。

「あ、また始まった」と気付くことができると、
もしかしたら、取り乱してリアクションを起こしてしまう前に、
その行為を止めることができる「かも」しれません。

なんて言いますが、なかなか止められない!
結局取り乱して、後で反省するってことを、繰り返していませんか?
でもね、繰り返し過ぎると、後で反省も、本当にもう何の意味も持たないことになってしまい、
何かが壊れるか、終わってしまうってことになりかねない。
それもまた、与えられたギフトなんですけれど。

思考、リアクション、反省。結構しつこいわけですね・・・。

で、もうどうにかしたいってことで、
「手放しましょう」
「執着しない」
「それでも愛されてるから」とか、
無理やり「思考」を変えようとするのです。

そんなん、無理です。言うのは簡単。思考を思考でやっつけるのは、無理。余計に疲れてしまいますよ。


「離欲(ヴァイラーギャ)= 欲を手放すのは、自分で拒否して手放している間は、手放しではない」
「自分がありのままであることに満たされた状態であれば、対象物があってもなくても「構わない」状態になる」

先日カルロス先生に教えてもらったことを、最近また考えていました。(便利思考の方で 笑)。
本来の意味での離欲は、抑えつけるのではなく、必要なくなる、という意味ですね。

瞑想をすること。
私の場合、離欲(ヴァイラーギャ)がテーマの瞑想では、「喜びをハートで感じる」ことに集中をします。

瞑想はやったことがない人は、何をしてるか分からないかもしれませんが、これほど効果のあることはありません。
座る前にヨガのポーズや深呼吸をして、まずは意識を思考から体に移すと良いでしょう。
数分間、呼吸を数えたり、何かに焦点を当てたりして、座らなければいけなかもしれません。
ずっしり、大地に根を張るような意識を下半身で感じます。
5分座るだけで、すでに心が落ち着いてきます。
それから、アーナンダ、喜びを、ハートでイメージします。
すべての呼吸や、音や、あらゆるものを、神々しくキラキラしたものとして受け取ります。
何も頑張らなくても、与えられているものを近くに感じてみます。
これを、20分くらい続けます。
どんどん、溢れてきます。
あげてもあげても、減らない愛が、自分の中にあることに気が付きます。
そして、限りなく与えられ続けてきた愛の至福と祝福のシャワーを浴びていることに気が付きます。
感じられなかったら、イメージしてください。
「手放す」ことさえも、忘れてしまってください。
これを毎日毎日やってみてください。

そうするといつしか、思考も含めて、「しがみついていたもの」って、
「あってもなくてもどちらでも良いもの」、になってきます。



- 以下おまけ -
瞑想は、つまらないことかもしれませんが、ヨガのポーズを行うよりも大きな効果があります。
開脚ができるよりも、大きな効果があります。
私は2003年に、カナダの禅堂で初めて瞑想を始めました。2008年まで意味が分かりませんでした。
瞑想中は体は疲れるし、眠くなるし、何をしているのかさっぱり?でした。
が、それでも座り(最初は毎日ではなかったけれど)ました。
2008年になりヨガのポーズを練習することで、体が強くなり、容易に瞑想の姿勢を取ることができるようになりました。
そして瞑想の体験が変わり、人生がすっかり変わってしまいました!
わくわくがいっぱいになりました。

どんな嫌な思考でも感情でも、それを大きな宇宙に捧げるように、神聖なものとして扱ってください。

at 16:49, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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ヨガスートラ 学びの続き with カルロス ポメダ

8月21日のカルロス先生のヨガスートラの勉強後、数点気になっていたことがあったので、
忘れない間にそれをここへ記しておきます。

Samadhi(サマディ)について。
この意味ですが、パタンジャリのヨガスートラでは「瞑想」という意味であり、
また「瞑想が終わるところ」という意味合いもあるそうです。
サマディは目覚めた状態(いわゆるエンライトメント)のことではないのです。
スートラでは目覚めた状態のことを Kaivalya(カイヴァリア)呼んでいます(4章)。

もうひとつ。

Ishvara(イーシュヴァラ)とはなにか?
ギータにも出てくるこの言葉。ずっと気になっていました。
カルロス先生によると、パタンジャリはイーシュヴァラのことを、「特別なプルシャ」だと言っているそうです。
「彼」はカルマや無知のない状態であり、大いなる意識と同じ性質のものだと。
「彼」と書きましたが、イーシュヴァラとは、神、統治者 (Ishvara = Lord, ruler) ということでした。

 

at 22:42, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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カルロス ポメダ先生の「ヨガスートラ」のクラスを受けて 

8月21日(木)は犬山の薬師寺にて、カルロスポメダ先生のヨガスートラのクラスを終日受けてきました。

パタンジャリのヨガスートラを歴史的背景をもとに、きちんと理解しましょう、というような内容のクラスでした。
例えばヨガスートラの中の「アーサナ」という項目は、ヨガのポーズのことではないので、気を付けましょう、というようなこととか(ポーズを行うハタヨガはもっと近年に起こったもので、ヨガスートラが書かれた2世紀頃にはポーズを行うことはありませんでした)、ヨガという言葉自体も、時代によって意味が違うんだよ、ということなどから始まり、ヨガスートラの主に1章と2章について、具体的に教えてもらいました。

ヨガは心の作用をゆっくり沈めていくこと。
修習(アビアーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって心はニローダとなる(だんだん静かになる)(1.12)。

カルロス先生の言っていたことでなるほど、と思ったのは、
アビアーサという練習を、プラクリティ側から行うと理解するのではなく、
プルシャ(大いなる意識と私は訳します)側に常に留まる努力をするという立場での練習、という理解でした。
そしてそれを行うために、
・時間をかける(焦らず)
・休みなく練習する(毎日)
・献身的に取り組む(愛を持って)
ことで、練習の基礎が作られる(1.13)とあります。
(どんなことを体得するにも、これは当てはまることです!)

離欲(ヴァイラーギャ)= 欲を手放すのは、
自分で拒否して手放している間は、手放しではない、ということもその通りだと思いました。
自分がありのままであることに満たされた状態であれば、対象物があってもなくても「構わない」状態になります。
それが本来の意味でのヴァイラーギャです。抑えつけるのではなく、必要なくなる、という意味ですね。

クラスの中で特に良かったのが、1.17にある瞑想の実践でした。
これはすごいなと思った。こんなことを教えることのできるカルロス先生がすごい。
サムプラジュニァータ(マインドが働いている状態)での 
VITARKA, VICARA, ANANDA, ASMITA という4つの瞑想ステップを取ることで、
アサムプラジュニァータ(思考がない状態)へと導くというやり方なのだけど、
とても効果的でした(完全に思考がない状態には私はなれないけど、そこへどんどん近付いていくのがよくわかる)。
ステップ1は、実際にあるものを見たり聞いたりして、その外的なものに集中。
ステップ2は、頭の中で何かイメージに集中。
ステップ3は、祝福、喜びという感覚に集中。
ステップ4は、自分がここにある、ということに集中します。
どんどん、言語の領域から遠ざかっていくので、思考が消えていきやすくなります。
(これがダーラナ―、ディヤナ、サマディで、1章ではこの3つをひっくりめてサマディ(瞑想)としているそうです)。

とても充実したクラスでした。今回の通訳は私ではなくスタジオヨギーのヤスシ先生でした。
ヤスシ先生ともお会いすることができ、スタジオヨギーの生徒さんたちにも会えて、ステキな一日となりました。

<カルロス・ポメダ>
スペイン出身ですが18年間インドで僧侶(スワミ)として過ごしました。現在世界各国で瞑想や哲学を教えています。
サンスクリット語の修士、サンタバーバラ・カリフォルニア州立大学での宗教学修士。現在テキサスのオースティン在住。
「ヨガの英知」というヨガ伝統の実践を題材にしたワークショップDVD6枚組をリリース。

at 22:07, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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個人を超えた、あの場所

この世は低次の世界であり、神聖なるものは別の場所(一般的に高いところ)にあってそこから神様が降りて来る。
精神的に成長したり、死んで天国へ行くことで、その高次な場所に近づけるというような考え方を、「二元論」と言います。
「二元論」というのは、2つの物が分離された状態で存在しているということです。人と神とか。
例えばキリスト教やイスラム教は、二元論的宗教です。そして「絶対なる唯一の神」しかいないわけなので、「一神教」となります。

それに対し日本の自然崇拝から来る神道は、唯一神が何かを取りまとめているとは考えないので、「神様」という観念があっても、「一神教」ではなく、「多神教」と呼ばれています。ヒンズー教も沢山の神様がいるので、「多神教」と言われています。

仏教には「神様」という観念がありません。「仏」とか「仏性」はすべての生き物にあると言います。そして仏教やヒンズー教では「悟り」とか「サマディ(三昧)」という考え方があって、低次の世界から高次の世界(悟りの世界・状態)に辿り着けるような修行をします。「低次」「高次」と分ける点では、「二元論的」ですが、仏教においての「生きとし生けるものすべてに仏性がある」と考える点は「非二元論的」な気がします。
また、神道は「多神教」とは言われるものの、神道における「神様」という観念はアニミズム的なそれであり、すべてのものに霊魂・霊性があるという考えが生きています。日本の神道も「二元論的」であり同時に「非二元論的」です。

自然崇拝、アニミズムの、「すべてのものに霊魂・霊性がある」と捉える点を、とても大切だと感じています。
(日本人なら、ピンと来る感覚で、大切にして欲しい感覚なのです)。
「すべてのもの」とは、「生き物」のみならず、「無機物(岩や石ころなど)」、「現象(風や雨)」も含まれるのです。これってすごいことなのです。
仏教に、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉があります。
「生きているものにはすべてに仏性があります」という意味ですが、この考え方が日本へ伝わると、自然崇拝と融合し、「生きているものすべて」を動物や草花などの「生き物」のみから「無機物」や「現象」にまで拡大して捉えました。
つまり宇宙・世界すべての生き物、生きていない物に霊性があり仏性があると、日本人は(無意識に)感じているのです。
そういうのが、ジブリの映画に表現されていて、切ないのです。

一神教は、明らかな「人間 対 神」 の二元論的世界です。
仏教や神道は二元論的であり、非二元論的であり、捉え方によって、どちらにでもなれる柔軟性があります。
さらに日本は自然崇拝の影響から「すべての現象」を崇拝する文化があるので、考え方が違う宗教でも抵抗なく敬意を示すことが出来るのだと思います。
例えば私の祖母はキリスト教徒でしたが、日曜の朝教会に行った後に、曹洞宗のお寺にお参りに行き、家の神棚にも手を合わせていました。教会の牧師もそれを知っていて問題なしでした。それをヨーロッパのキリスト教信者に話したら「その婆さんは地獄に落ちた」と言われたことがあります!

日本の哲学者である西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」という言葉を使っています。西田幾多郎の哲学は正直良く知りませんが、この言葉は好きです。(私の中で言葉が独り歩きしている傾向もありますが)。
「ふたつの相反するものは、相反しながら同時に一体である」というような、捉え方をしています。
(間違っていたらごめんなさい)。
神々しいものが、どこか高い場所にあり(二元論)、同時にそれが自分自身、体験そのもの(非二元論)であるという、
「分離されていて同時に分離されていない」状態。究極な非二元論とは、「非二元論者が二元論的思考さえも包括し分離せずにいること」だと感じます。
しかし、これを書いている私は、日本人なのです・・・。海外に10年近く暮らした結果、そして様々な文献などを読んだり、人とディスカッションしていく中、日本人は「母性的」な人種だということを学びました。自然崇拝に仏教の考え、そこに日本特有の母性的な包み込む性質が加わり、日本の人たちは、どんな難しい状況でも母が子をあるがまま包み込むように(あるいは飲み込んでしまうこともある)、受け入れることができます。
それに対して西洋は父性的です。父は子が強く、より良くなるように、変化を好みます。古いものを切り捨て問題解決をしようとします。
だから仏教やヨガを行っていても、何か違いがある。
日本は苦しみの中で、しょうがない、みんなで慰め合って(内の社会)いきましょう、と言います。
西洋は苦しみがあるなら、仕事を辞めたり、制度を変えようとします。
そんな、さまざまな文化、考え方の中で、私たちは「共存」しています。

古い時代、偉大な芸術家たちは、人生の切なさを、その作品の中で表現してくれました。
なぜ「切ない」のか。
切なさは、すべてが流動し、変化していくから切ないのです。
その究極が、死んだ人には二度と会えない、そして自分も死んでしまったら、愛している人に二度と会うことができない、同じ風景を二度と見ることもない、という事実です。これを仏教では「無常の悲しみ」と言います。
その無常なこの世で一生懸命生きる姿が、悲しく、同時に美しい。これが切ないのです。
そして、人間だけがその中で無意味な殺し合いをする、愚かな生き物です。
バガヴァッド・ギータでアルジュナがクリシュナの目で世界を覗き見た時、そこには凄まじい光景があったと言います。
すべてが破壊される恐ろしい光景です。すべてが生まれ、維持され、破壊されるということを繰り返す宇宙です。
そんな世界に、私も、みんなも、生きています。それは時々とても切ないことなのです。

「非情の悲しみ(impersonal sorrow)」
個人のセンチメンタルな感情を超えた、悲しみのことです。
それはおいおい涙を流して悲しいというような感覚ではありません。
もっと静かで慈悲深いものです。
人の愚かさをも包み込み生きさせている自然の力にひれ伏し委ねた時に感じられる、まるで胎内(源)に回帰したような感覚。
自己を超えたすべてがすなわち自分であるという感覚。
そこでは、二元論も、非二元論も、カルマの法則も、輪廻転生も、誰がいかなる思想を信じていたとしても、すべてが、「同じこと」でしかありません。

(河合隼雄先生の言葉や考え方を、いくつか引用させていただきました)。
 

at 21:59, shakti-mandir, 5. ヨガ哲学

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