YOGA

前回のブログで「脱ステロイド」のことを書いてから、

何人かの生徒さんから励ましのメールが来ました。

また、昨日は理学療法士さんによるワークショップを主催させてもらって、

12名の生徒さんの顔が見れて、

みんなのことを、とても愛おしく思いました。

 

脱ステロイドで体中に炎症が起こり、

朝目が覚めてから起き上がるのに1時間ほど時間がかかり、

あまりの痛みに背中を丸めてしか生活ができなかった日々がありました。

 

炎症がひどくなる前までは、

ヨガや瞑想をして気持ちを落ち着かせていたものの、

 

痛みがひどくなってくると、

起きるのがやっとで、

マットを敷くこともできません。

 

私はこれまで疾患を持った生徒さんともヨガをしてきたけれど、

指先さえ動かせたら、ヨガができると、

呼吸さえできたら、ヨガができると・・・、

 

どんな小さな動きでも、自分でコントロールして動かしている、

動かせる、

ということが、

人に、パワーを与えると、

軽率に考えていた・・・。

安直だった。

 

実際自分が痛みで動けなくなると、

ヨガなんて、どうでも良くなった。

というか、

ヨガを考えることさえ、できなかった。

 

起きて、機嫌よくあることが、その日の目標となった。

 

そして少しだけ症状がマシになったころ、

それでも痛みでポーズなんて取れなかったが、

ヨガについて、考え始めていた。

 

約2週間、ヨガの練習ができないでいた。

犬の散歩さえできなかった。

 

だけどヨガを考えたとき、

私の先生の本を最初から読み返しながら、

ポーズはヨガの一側面でしかなく、

ヨガはポーズではない、ということを、思い出したのです。

 

"Yoga is a spiritual practice. It's about how you feel at any given moment"

(ヨガは精神性を高める練習だ。あらゆる状況下において、自分はいかに感じているのか?)

 

「自己同一」という言葉がある。

痛みがあると、人は痛みと自分を自己同一する。

病と、自分を自己同一する。

苦しみと、自己同一する。

 

私が人生に急ブレーキがかかったように、

体が動かせないほどの痛みに見舞われた時、

私は、惨めだった。

 

それがなぜ、自分に起こったのか、

怒りを感じ、

先がわからない不安を感じ、

体の見た目がボロボロになっていく自分を、

恥ずかしいと感じた。

 

それが、自分自身の姿、となったからだ。

 

今までの健康な自分ではなく、病の自分が自分になっていた。

 

アーサナ(ポーズ)の練習もできなくなり、

じゃあ、

私のヨガはどうなってしまったのだろうと、

ヨガの道は塞がれた気分だった。

 

だけど、

私の先生の言葉。

それは私を原点に戻してくれた。

 

自分が今この状況の中で「いかに感じる」かは、

私の選択でもある。

 

苦しみと自己同一して悲劇のヒロインになるのも自分の選択である。

この症状は、いつ治るか分からないもので、

指導ができるようになっても、

(指導は来月から少しずつ始めるつもり)、

体中にある炎症が引くのは、数ヶ月後、数年後かもしれない、らしい。

 

そんな、いつ解消するか分からない問題を抱えていて、

それをどう受け止め、どう、感じていくか。

 

これは私の選択であり、決断でもある。

 

"It's about your experience.

The point is to transcend suffering, not endure more of it".

(ヨガとはあなたの体験のことだ。

鍵になるのは、苦しみをいかに超えるかであり、苦しみにもっと耐えるということではない)。

 

"Yoga is about producing joy".

(ヨガは喜びを産むことだ)。

 

今でもたまに、体中が乾燥してひび割れたように痛く、

そんな日は、外が暖かくても、自分はとても寒く感じる。

 

笑顔には、到底なれない。

 

でも、その状況で、

病と自分を自己同一化することもできるし、

「これもまた、過行くもの。あらゆるものが、過行く」

と、

今の状況と自分を自己同一しない、こともできる。

 

その練習をするのが、ヨガだ。

 

人生は、良いと悪いのサイクルを繰り返す。

良いも、悪いも、一生続かない。

空の雲の形が、決して常に同じ形ではないように、

私たちに起こる人生の出来事も、瞬間瞬間、変化している。

 

"When the mind is still, you are happiness"

(心が静かになれば、あなたが幸せそのものとなる)。

 

私たちの心(エゴ)は、

お喋りを止めない。

 

私は自分が痛い思いをしているとき、

「どうしてそれが自分に起こったんだ」と、

原因探しを始める。痛みに腹が立つ。

 

でも、それが、何をどう解決するというのだろう。

 

瞑想は、

自分の思考を観察する機会を与えてくれる。

 

さもなければ、人は自分の頭が何を考えているか、

無意識で生きている。

そしてその頭の中のお喋りとは、

同じような内容をただ繰り返している、役に立たないもののことが多い。

 

私は今、静かに座ることが困難だ。

でも、

動きながらも、瞑想的になることはできる。

それは、自分の思考の癖に気づくことだ。

 

そしてこの状況下で、自分がどう感じているか。

そこに意識を向けること。

それが、今の(そしてこれからずっと先も)、

自分のヨガ、なんだ。

 

最初、そこから、スタートしたのだった、ということを、

今与えられている苦しみが、教えてくれた。

 

そして、リラックスすること。

 

副作用の炎症が一番ひどかったころに比べて、

今は少しはマシになり、

ポーズの練習もできるようになった。

 

でも、お医者さんからは、

ヨガじゃなくって、有酸素運動をしなさい、と言われてる。

 

有酸素運動って、走ったりする、ことだ。

 

この体がヒリヒリ痛い状態で、走って汗かくなんて、

拷問のようだが、

そうやって代謝を良くし、

汗により肌を強くすることが大事らしく・・・。

 

私の抱えている症状は、

水分制限(一日1リットル以下に留める)

健康的な食事

運動

によって、治癒のスピードが上がるというので、

 

ポーズの練習もしたいけど、

それよりも、

毎朝、30分、有酸素運動をしている。

 

何をやるかって、

外で走る勇気はないので(紫外線も致命的なので)。

 

家で密かに、自己流で踊っている(笑)。

今日はマイケル・ジャクソンを聴きながらアホみたいに汗だくで踊ってみた。

これ、結構効果あって、

心拍は1分間に130まで上がり、汗ばみ、

汗ばむと、尋常じゃないくらい、体が痛く、

必死で扇風機で乾かす(あはは、なんじゃそりゃ)。

 

しかしせっかくやるなら、

楽しく面白おかしくやらなきゃ損。

 

今日は Beat it, beat it! と一緒に歌いながら、

パンチ連続のダンスだった。

 

ヨガは幸せを産むこと。

 

苦しみの中でのそれが、一番の練習。

 

だからって、苦しみを選ぶ必要はなく、

でも、人生、

絶対苦しいって時が、何度あるはず。

 

そして、人は年を取る。

 

年を取ると、

今までできたことが、どんどん、できなくなる。

 

その時自分がどう感じるか、

それも、ヨガ。

 

マットの上じゃなくても、

ヨガの練習は、

いつでもできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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脱ステロイド

"今日という日" のブログのタイトルを、

「脱ステロイド」にするかどうか、

実際、何日も迷いました。

 

でも、やはりこのタイトルしかなかった。

 

今私はこの、

まさに壮絶な「脱ステロイド」を克服する日々を送っています。

 

2018年に入ってすぐのブログに、

今年のテーマは「道草」、みたいなことを書いていたが、

とんだ道草になっている・・・。

 

ある時、時間が止まってしまったかのように、

「脱ステロイド」のおかげで、

今までできていた、ほとんどすべてのことが、できなくなってしまいました。

(自分だけの家事をこなすのみで、唯一お料理だけは楽しくできていますが)。

 

 

簡単に説明すると、

「脱ステロイド」というのは、

”ステロイド軟こう(ステロイド外用薬)の依存症から立ち直ること”。

 

ステロイド軟こうはアトピー性皮膚炎に当たり前のように使われている軟こうで、

日本では赤ちゃんから成人まで、使用している人は多くいます。

 

私も子どもの頃、アトピーでした。

そして当たり前のようにステロイドを塗っていました。

が、それほどひどいアトピーではなかったため、

2,3回塗ったら湿疹が治る程度のものでした。

 

年に数回、ほんとに数少ない使用量だったのです。

 

大人になって、ヨガを始めてから、アトピーはまったく完治していました。

ステロイド軟こうも、皮膚科へ通うことも、

もう遠い昔のこと・・・。

 

だったはずなのですが、

4年前から湿疹がほんの少し発生し、

また、一年に数回、ステロイドを塗る生活が始まっていました。

 

それでも、前と同じように塗ればすぐに治るので、あまり気にしていませんでした。

 

が、去年に入り、湿疹が悪化し、ステロイドを塗ってもなかなか治らなくなりました。

 

「ステロイドは恐い薬」というのはなんとなく知っていました・・・。

 

なぜ、恐いのか?

 

それは、「効かなくなるかもしれない」からであり、

効かなくなると、薬の強度が高いものを処方されたり、

ひいては、一生薬が手放せなくなるから。

 

と、その頃は、その程度の心配しかしていませんでした。

(生き地獄ほどの苦しみが訪れることを、まだ知らなかったのです!)。

 

 

なかなか湿疹が治りません。

食生活は悪くないと思っていました。

でも、去年は仕事で毎月移動、

子どもの大学受験、

色々忙しさが積み重なっておりました。

 

薬を塗っても塗っても治らない。

それどころか、最初の湿疹があった場所以外にも、湿疹が出てくる・・・。

ステロイドを塗っていると、湿疹の形状が変わってきたりもしました。
 

まさに、訪れた皮膚科の数は、

S皮膚科(桑名)

F皮膚科(名古屋)

?皮膚科(名古屋)(名前を忘れてしまった)

N皮膚科(桑名)

O皮膚科 (桑名)

 

と、5件にものぼりました。

 

そのどこの皮膚科も、「ステロイド」。

11月〜3月までN皮膚科に通いましたが、

ステロイドの強度が「ストロング」レベルの軟こうを、

毎日2回、患部に塗り続ける、という指示が出てました。

 

「こんなに使って大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫、みんな使ってるから」

「なぜ治らないんでしょう?」

「う〜〜ん、それはそういう体質なのね」

 

待合室で1時間以上待たされた上、

診察時間は2分ほど。

毎回同じ薬を出されるだけで、

患部もちゃんと見ていない・・・。

 

薬を塗っているのに、ひどくなる。

 

それに対して医者は疑問を感じないのだろうか?

 

と、私がだんだん、疑問を持つようになってきました。

 

そして3月26日、私は思い立って、

ステロイド軟こうを使うのを、一切やめることにしたのです。

 

そこから地獄の日々が始まりました。

5月、6月の私のクラスがあまりないのは、
ステロイド離脱症状がひどすぎて、思うように動けないからです。

 

去年、皮膚科を訪れた際、湿疹は「背中に少し」ありました。

「おでこにも少し」だけありました。

 

背中は4ヶ月、毎日ストロングレベルの軟こうを塗った。

おでこは時々、それよりも少し強度が低い軟こうを。

 

ステロイドを中止したら数日後、

耳の後ろから首にかけて炎症が起こり、

1ヶ月後、脇の下、脇腹、腹部、体側、背中、股関節、頭部と広がり、

上半身は真っ赤な世界地図を描いたような姿になりました。

 

赤いだけではなく、

ジクジクし、ひび割れ、壮絶な痒みと、皮膚が裂けそうな痛みがあります。

毎日朝まで眠れることはありません。

 

なぜ、こんなことになるのか?

 

それは皮膚が臓器だから、

ある一か所にステロイドを塗っていただけの場合でも、

使用を中止すると、

皮膚全体がステロイドに対して禁断症状を起こし、

それが炎症として、数ヶ月〜数年、続くのだそうです。

 

私が3月26日にステロイドを一切やめる(脱ステロイドする)ことにした際、

インターネットで実際に脱ステロイドを行った人たちのブログなどを読んでいました。

 

ひどい人たちは、20年、30年、毎日ステロイドを使っていたと書いてあったため、

たまにしか使ってなかった私はきっとそこまでひどくはならないと、甘く見ておりました。

 

去年4ヶ月使っていた際、

薬が効かなくなったところで、たぶん、それはアトピーではなく、

「ステロイド皮膚炎」になっていたと、考えられるそうです。

なので、すでに体は「ステロイドに依存」を始めていました。

 

どういうことかというと、

これはアルコール中毒のようなもの、だそうで・・・。

アル中の人は、アルコールを飲むことは体に良くないとわかっていても、

アルコールが切れると禁断症状を起こします → もっとお酒が欲しくなる。

 

同じように、ステロイド依存になると、

ステロイドが切れると禁断症状を起こし、

湿疹がひどくなります → もっとステロイドを塗らないといけない。

 

それを患者も標準治療を無意識に行っている皮膚科医も、

「アトピーが悪化した」と勘違いします。

 

そして、もっと強いステロイドをつけましょう、という流れになります。

 

ステロイド皮膚炎に、ステロイドを塗るのは、

アル中の人に、アルコールを飲ませるのと同じようなことです。

 

脱ステロイドの人たちのブログを読めば読むほど、

これ以上ステロイドを使うことはやめるべきだという気持ちが強くなったのです。

 

ただ、患者が混乱するのは、

皮膚科医の間で、

「ステロイド推奨派」と「ステロイド反対派」があって、

ネット上でもこの2つの派閥が紛争のようにお互いを否定し合っており、

ステロイド推奨派はステロイド反対派のことを、

犯罪者や詐欺師のように罵っている状態だからです。

 

だから患者は、いったいどちらを信じたら良いかわからない状態になってしまいます。

 

日本皮膚科学会は「標準治療」として、

「アトピーにはステロイドを使いましょう」

とガイドラインに載せています。

 

だから町の皮膚科に行くと、どこでもステロイドが安易に処方され、

「安全な薬」として出回っています。

 

しかし実際に患者の立場からすると、

ステロイドを何年も何年も使い続け、

アトピーが良くなるどころか悪化し、

薬の強度が上がり、

本当にこれは安全なのか?という不安を抱えた人が、

私も含めて、多くいます。

 

私が脱ステロイドを行うことを決心したのは、

そういった長年ステロイド軟こうを使い続けた人が、

ある日、薬がまったく効かなくなり、

ステロイドの内服までしても治らず、

ステロイドが一切有効でなくなったため、

ステロイドを止めるしかなかった、

という人のブログをいくつも読んだからでした。

 

その人達がステロイドをやめてから、

体中に炎症が起こり、滲出液が出て、動けなくなり、

仕事も学業も何年も休むことになったという壮絶な生き地獄を・・・。

 

しかし、

そこまでリバウンドがひどいものなので、正直恐かった・・・。

 

でも、

"atopic dermatitis 患者に学んだ成人型アトピー治療"

という、阪南中央病院の佐藤健二先生が書いた本を読んで、

もう「これしかない!」と決意をしました。

 

 

ステロイドを常用しなければならない患者には、

2つの選択肢があります。

 

薬を使い続ける。

この場合、湿疹が良くなればラッキー。

薬を塗っても治らない場合、一生薬漬け。

または、最悪薬が効かなくなり、強制的に薬を止めるはめになる。

 

 

自分で薬をやめる。

体には自然治癒力があるのだから、時間かけても自力で治す。

この場合、しばらくはリバウンド状態に苦しむが、

早くやめればやめるほど、リバウンドはひどくなる可能性が低い。

 

 

阪南中央病院の佐藤先生は、

日本一の脱ステロイドの名医であり(と私は思う)、

もちろん、△鯀んだ患者の手助けをしている。

(,婆瑤鬚笋瓩兇襪鯑世覆った人の助けももちろん!)。

 

アトピーは、私の場合、ストレスがかかってくると出ます。

そしたら、ステロイドを塗っていた。

 

この先、そういう生き方は、絶対やめよう、と思った。

 

何よりも、ヨガを始めて完治していたアトピーが再発したことを、

正直、急いで「隠したかった」のかもしれません。

 

これ、まさに見栄やわ〜〜。

健康的なヨガの先生でおらなあかん!って、見栄張ってたお陰で薬選んでたのかも。

 

だけど、

色々学んだ結果、

もぐら叩きのように、

ステロイド皮膚炎にステロイド塗るのなんて、絶対考えられなかった。

 

さて、ステロイドを中止して1週間で、

炎症で耳がひきちぎれそうになりました。

顔もバリバリになりました。

体は真っ赤。

 

めちゃくちゃ不安になったので、

すぐに阪南中央病院の佐藤先生に会いに行きました。

 

「ステロイド皮膚炎やな」

 

思った通りのことを言われたのだけど、

自分が選んだ道が間違っていないと言ってくれる医者がいることの、心強さ。

 

患者一人に15~20分くらい時間をかけてくれて、

何の質問にでも答えてくれる。

 

他の皮膚科は、「大丈夫」とか「体質ですから」とか、

ましてや、

ステロイドについての質問をしようものなら、

触れてはいけないことに触れたみたいな冷たい対応しかしてくれない皮膚科医ばかりだった・・・。

 

佐藤先生は私の質問リストのすべてに答えてくれて、

私の体を見た後、

「今はひどくないな。1ヶ月後に、ひどくなるかもしれないな」

と言われたのです。

 

「どうしてですか?」

「いや、そういうケースも時々あるから」

 

そして、ばっちり1ヶ月後、私のステロイド離脱症状は、

最強に「ど最悪」なものになりました。

 

腕の付け根の炎症がひどすぎて、両腕が下せない。

首が回らない。

体は赤い世界地図。額面通りのボロボロ。。

 

阪南中央病院からは、抗ヒスタミン剤しか出ないので、

それを飲んで、ひたすら耐える日々。。。

 

今まで経験したどんな辛い経験よりも、辛い経験となった。

 

そして、いつ治るか、わからん!

3ヶ月の人もいれば、7年の人もいる。。。

つか、ほんとに、治るの?って不安になる。

 

あまりに不安になったので、

阪南中央病院に加え、

岐阜の大垣にある、たらお皮膚科を訪ねました。

ここも、脱ステロイドの専門医がやっているお医者さんです。

桑名市から近いから、助かります。

 

たらお先生は、「トンネルの向こう側は見えてるから」と励ましてくださり、

ここでも薬は出ませんが、

ビオチン(ビタミン)のサプリと、食事療法で、私を支えてくれています。

たらお先生も一回につき、30分くらい時間をかけて診察してくれます。

どんな素材の洋服を着るべきかや、仕事の対応の仕方、

食事の栄養素の計算の仕方など、教えてくれるのです。

 

私は今まで生きてきて、

何度も皮膚科に行ったけど、

「あなたの体には自然治癒力がある」と勇気づけてくれた皮膚科医は一人もいなかった。

阪南中央病院の佐藤先生と、たらお皮膚科のたらお先生は、

正真正銘の本物の医者だと思いました。

この二人の名医は、ステロイドを使わずに、

皮膚炎がどんな経過で良くなっていくかを、

多くの臨床例で、熟知しているからです。

 

ステロイドを使っている医者は、

ステロイドを処方することしか知りません。

 

 

今日で、脱ステロイドを開始してから、52日が経ちました。

まだ、もちろん治っていませんが、少しは楽になっています。

 

明日からプライベートセッションを開始します。

週1回のペースです。

6月から朝のクラスを少しずつ開始します。

通訳も少しずつ・・・。

 

仕事復帰できる目途がついてきたので、

気持ちもさらに前向きになってきました。

 

私の不在中、生徒の皆さんには大変ご迷惑をおかけしています。

そして、いつも代行で頑張ってくれているアツ子先生には感謝しきれません。

少しずつの復帰になりますので、ゆっくり待っていてください〜。

 

 

 

【ステロイドを使いたくない人のための皮膚科】

● 阪南中央病院の佐藤先生

● 大垣市のたらお皮膚科

 

私もステロイドを止めたいという人、

ステロイドを使わない皮膚科を知りたいという方は、

いつでも相談に乗りますので、ご連絡ください!

 

 

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【補足】

アトピーの標準治療で日本皮膚科学会がステロイドを推奨しているのは、

製薬会社とのお金絡みの関係がその陰にあるからかもしれません。

 

昔タバコは健康に害がありません、と言われていましたが、

実際に肺がんになった人たちに訴えられて、

今では、海外のタバコには、肺がんの人の真っ黒な肺の写真を載せています。

 

「こうなるかもしれないけど、それでも良かったら吸ってください」

という意味です。

 

 

ステロイドも、昔の私のように、うまく使えている人もいるだろうし、

ステロイドがなくては、生活できない人もいるはずです。

 

だから、すべての人がステロイドを使わないべきだとは、思いません。

 

だけど、

ステロイド依存症になる可能性がありますよ!

と、その依存症になったらいったいどんな地獄が待っているか、ということを、

患者に伝えるべき(写真つきで)だと思いました。

 

だけど今はネットがある時代なので、

知りたい人は、「脱ステロイド」で検索すると、実際にその経験をしている人たちの話が読めます。

みんな、共通点がありますので、興味深いです。

 

また海外でもステロイドの副作用は問題になっています。

Red Skin Syndrome とい名で、同じように苦しんでいる人たちがいますが、

みんな数ヶ月から数年で治っています。

ただリバウンド中はほんとに地獄です。

 

 

【補足2】

ステロイドとは、「副腎皮質ホルモン」ですが、

それは人間の副腎皮質でつくられるホルモン、「コルチコイド」のことです。

現在、コルチコイドは副腎だけではなく、皮膚からも分泌されていることがわかっているそうです。

(炎症を抑えるホルモン)。

 

ステロイドを塗ることで、副腎の機能が落ちることはない、とされていますが、

皮膚が自分でコルチコイドを分泌する機能は、ダメージを受けるとのことでした。

 

ストロングレベルのステロイドは、皮膚に通常あるコルチコイドの10万倍のコルチコイドになります。

そんなものを塗っていたら、自分でコルチコイドを調整できなくなってしまうことは、当然のことのように、感じられます。

そんな薬が、普通に薬局でも売られていますので、気を付けてください。

 

 

【補足3】

カリフォルニアの脱ステロイドを診ているお医者さんのサイトです。

阪南中央病院の佐藤先生とほぼ同じことを言っています。

 

サイト内のビデオ、英語ですが、英語がわかる方は聞いてみると良いと思います。

http://www.red-skin-syndrome.com/

 

彼が言うのは、今の皮膚科医は、

ステロイドを使った状態でのアトピー(eczema)と、

純粋なアトピー(exzema)を見分けられる人がいないと。

 

アトピーは10歳くらいまでに治る病気だった。

でも今は成人の患者が増えている。

それは、アトピーではなく、

アトピーがステロイド皮膚炎になったものでもあるかもしれない。

だけど、今の皮膚科医は、ステロイドを使用前の純粋なアトピーがどんなものかを知らない。

だから、ステロイド皮膚炎を、難治性の成人性アトピー性皮膚炎としてしまっている。

 

 

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ステロイドを推奨してきた人たちが、

それによって害があったという事実を認めることは、

自分たちの長年の非を認めることにもなる。

だからどんなことをしても、ステロイドは安全と躍起になって言い続けている。

 

それだけ、世の中には正直な人はいない、ということなのでしょうか・・・。

 

それならば患者側が勉強して、自分で治療を選んでいくしか、

少なくとも皮膚科に関しては、ないのでしょう。

 

 

 

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毎日同じことをする

「毎日違うことをする生き方」ってタイトルで前回ブログを書いてから・・・。

それについて、しばらく考えていました。

 

特にヨガの先生とか、ミュージシャンとか、

移動が住居になっているタイプの人っている。

 

だけどよくよく考えると、

そうやって動いている人たちって、

移動しながら、

毎日同じことをやっている。

 

ヨガの先生は、

どこに行っても毎日欠かさずヨガの練習をしている。

 

ミュージシャンは楽器の練習、毎日している。

 

毎日、同じことを、こつこつと、やっているのです。

 

この、毎日こつこつとやるってことに関しては、

この人たちは、妥協しない。

 

継続は力なり、とは、本当にその通りだと思っている。

 

毎日違うことをする生き方をしながら、

この、「毎日こつこつ同じことをする」を除いてしまったら、

一体どうなるんだろう・・・。

 

楽器の練習も、ヨガの(ポーズの)練習も、

英語の勉強も、

みんな、こつこつすることでしか、身にならない。

 

ジプシーみたいに生きてる人でも、

そこんところは、結構、かなり、マジメである。

 

でも、

人によっては、

毎日違うことをして、

こつこつ何かを継続することもしないわって生活でも、

別に良いかもしれないし、

 

毎日同じことをして、

推測がつく日々を送ることが好きって人がいても、それも良い。

 

人は色々。

 

自分と相手が、

同じ価値観である必要はない。

 

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毎日違うことをする生き方

ちょっと久しぶりのブログになってしまいましたが、

2月末にもなると、時々、春の兆しを感じることがありますね。

 

先日、夕方ひとり、リストラティブヨガをやっている最中。

日暮れの時間が少しだけ遅くなったこと。

そして、夕方でも、鳥が鳴いていた。

その声は、軽やかで、朗らかで、

ああ、春が来るのだと、感じたのです。

 

"Anticipation" という言葉が英語にあります。

何かを予期する、というような、ニュアンスの言葉かな。

 

春は、動きがある。

それはまさしく、これから特別な何かが起こるような、兆しにも感じられます。

 

こんな、季節の移ろいに気づくこと・・・。

人間は毎日、オフィスなんかで、パソコンや携帯を触っているから、

自然がこうして変化していくことにも、

気づかないことがある。

 

人は農業を始める前は、狩りをして暮らしていた。

その頃のホモサピエンス(人間)は、

どんな時代のホモサピエンスよりも、

あらゆる能力において、長けていた。

 

道具を作ること、

手先の器用さ、

獲物を追いかけること、

走って逃げること、

音を聞き分けたり、

目ももっとよく見えただろうし、

 

災害が起こったらどうするべきか、

ひとつの食物が尽きたら次は何が食べれるのか、

 

例をあげたら限りがないくらい・・・。

 

生きる能力において、

あらゆる側面で現代人は、

狩りの時代の人たちに、かなわない。

 

現代人は、

何かひとつのことに特化した能力を持つ人たちが、

お互いの不足した能力を補い合いながら、生きている。

(例えば、私はちょっと英語ができるから通訳をするけど、

家を建てることはできないから、

それはそれを得意とする人にお願いすることになる)。

 

そんな私たちは、

大自然の中で、

自分だけ、

ひとりぼっちになったとすると、

数日できっと、死んでしまうだろう。

 

自然の中(例えばジャングルなど)で、

自分ひとりで生きるすべを知ってる人って、

そう滅多にいない。

(若干一名、この人ならできるかもって人を知っているが・・・)。

 

そういったところでは、人はサルに劣っている。

サルはどんなに過酷な自然の中でも、どうにか生きてくすべを知ってるもの。

もちろん、過酷な自然の中での子ザルの死亡率は、人間のそれよりも高いだろうが。

 

・・・こんな話を、

イスラエル人の歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリは、

「サピエンス全史」の中や、youTubeで語っている。

 

彼の話は膨大すぎて、

ここに要約を書くことはできませんが・・・。

 

今、「サピエンス全史」を、

(必要があって)、

英語で読んでいて、

(英語で読まなければならないので)・・・。

 

まだ全然読み終わってないけど、

(まだかなり最初の方)

 

おもしろいなって思ったところがあります。

 

狩りの時代の人たちの仕事の話。

彼らは、狩りや植物を採りに出かけたりする仕事をしていた。

それは1週間におおよそ35~45時間の労働量だった。

 

現代人でも8時間労働で5日働くと、残業なしで、週40時間。

(土日はお休みだけど、家の仕事があったり・・・)。

 

でも、著者の言うには、

狩りの時代の人たちは、今の時代の人たちよりも、

仕事を楽しくやっていた。

 

その理由。

それは、毎日、違うことをしてたから、だって。

 

午前はあそこに狩りに行って、

午後はあそこに木の実を採りに行く。

明日はまた別の場所、または、明日は川へ行くかもしれない。

 

それに対して現代人は、

毎日同じ会社へ行き、

データ入力とか、組付け作業みたいな、

繰り返し作業、

同じことを何時間もするのが仕事って場合が多い。

 

椅子に座って一日中動かない・・・。

そんな仕事を楽しい!って、

やりがい持ってやることは、困難だろうと。

 

毎日違うことをする方が、楽しいだろうって、言うのです。

なるほどなと、思います。

 

私は特に、毎日同じことをすることが苦手なので、

毎日同じことをしている職業の人って、

すごいなって、

いつも、どうやったらそんな日々を送れるのだろうって、思ってきた。

 

それが最近、インスタグラムを始めて!

ヨガの先生の写真なんかを見る機会が増えましたが、

ヨガの先生たちは、移民?ジプシー?ってくらい、

みんな毎日同じことをしていないどころか、

毎回いる場所や国まで違ってる人の多いこと・・・。

 

ヨガしてる人は、

狩りの時代の人のDNAをより多く受け継いでいるのか?

 

(↓さっそく、インスタグラムの活用)

 

 

私は別に、どっちの生き方でも、

自分に合っている方を選べるのであれば、選べば良いと思いますが。

 

でもこの先、

色んなことを臨機応変にできるってことが必要になってくる時代が、

来るのではないなか・・・とも思います。

(ひとつの仕事に留まらず、色んなことをやる時代?)。

 

毎日、違うこと、違う仕事をして生きるなら、

どんな仕事が良いかな〜?

 

連想ゲームとか、遊びみたいに、

色々想像してみると良いかもしれない。

 

そのゲームは、「将来性」などは考える必要のないゲーム。

子どもが遊びを思いつくのと、同じようにやってみる。

将来性があるかな〜というのは、後からどうにかしたら良いことで、

楽しそうなことを、考えたい。

せっかくだからね。

 

私はいつか、これがやりたい。

コミュニティーガーデン。

なんで?

なんでかな〜?

 

 

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ペインボディ(前回の続き)

「ペインボディ」について、昨日ブログを書いたのは、

最近つくづく、ペインボディ(またはサムスカーラ)の根は深いと感じる出来事が・・・、

「出来事」というか、

出来事によって起きてくる「ペインボディ」をキャッチすることが、

ちょくちょくあったからです。

 

ペインボディは、忘れた頃にやってくる。

(サムスカーラも同じ)。

 

もう、大丈夫だろうと安心している場合じゃない!

 

体でそれをキャッチしたら、

それがどこからやってくるのか、

「向き合う」。

 

これって、

「問題(闇) に飛び込んでいく」ようなことで、

かなりの勇気がいる。

 

過去に傷ついた痛みの記憶を、肉体が、覚えている。

その記憶(感情)によって言動を起こす私たち。

でもペインボディから起こす行動は、絶対に良い結果を生まない。

 

人は、それが分かっていても、

何度も何度も何度も、同じパターンを繰り返し、

何度も何度も何度も、同じ結果にたどり着き、傷つく。

 

でもある時、

「もう何が何でもその同じサイクルを繰り返すものか」、

と、心のむちゃくちゃ深いところで、決断する。

 

というか、決断しない限り、変わらない限り、

そのパターンを繰り返しては、

もうこれ以上、生きていけない。

 

そんな生き方はもう「無理」になる。

 

ここまで来るのに、すでにかなり苦しい。

 

そしてその先も、きっと苦しいぞ〜。

 

だって、

ペインボディと付き合うことは、

自分のすごい深い暗い部分に、

飛び込んでいく作業だからだ。

 

それって「闇」だから、

自分であっても未知の世界で、

とても怖いのである。

 

でも、

そうすることでやっと、

少しずつだけど、

いつも陥っていた罠に、

(それは自分がしかけた罠でもあるのだが)、

落ちないように、生きれるようになる。

 

そしてまた時々、ペインボディに振り回され、

でも、

振り回されてることに、

「気付く」タイミングが、

少しずつ早くなる。

 

そして闇の闇の闇に飛び込めば飛び込むほど、

ぽろぽろと剥がれていくものが出てきて、

例えば不安でも悲しくても、

(その結果、怒りがあっても)、

「大丈夫」みたいな気持ちになり、

 

すごい、腹がすわる。

何があっても、もう絶対たじろかない、という自信が湧いてくる。

そして、人生をこのまま信じていけるようになる。

 

これが、地に足がついた、と言う感覚なのかもしれない。

 

そんなことを考えていたとき、昔読んだOshoの文章が、

フェイスブックの「過去の思い出」で、出てきた。

 

Oshoは、この闇が「ハート」なんだと言っている。

そしてそこに、愛があるんだって。

 

そうだ。そうだよなって思う。

 

この愛は、損とか徳とかの勘定がない愛だ。

見返りなんてどうでも良い愛だ。

 

それを感じるには、自分の闇の底に飛び込んでいくことが不可欠なんだ。

そしてこれが、もうずっと長いこと、

この課題に取り組むのが、

自分のミッション(使命)だった・・・。

今も、そうだ。

 

自分の闇の深いところに行くと、

自分の光と闇、その両方があって、良いんだってことになる。

それが、自己統合なのかもしれない・・・。

 

このプロセスは、これからも、何度も繰り返していくのかな。

やっぱ、これが、私にとってのヨガかもしれない。

 

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"LET LOVE BE YOUR PRAYER (Part 5)"

Oshoの文章を、翻訳してみました。 

 

 

子どもの頃から人々は、芽を摘み取られてきた。

ハートに深く根付いていたはずの根が、切り取られた。

頭の方ばかりへと気を取られるようになり、

ハートが何を感じてるかを受け取れない。

だから人はもう長いこと、苦しい。

だから、愛を感じなから生きることができない。

 

その理由はこうだ。

 

愛はリスキー。

愛するとは、危険なこと。

なぜなら愛をコントロールすることなんて、できないのだから。

コントロールできないことは、安全ではない。

愛は自分でどうにかできるものではないのだ。

愛はどう展開するかも分からない。

愛がどんな方向へ向かっていくか、予測なんてできない。

それが何かに到達するのか、不毛であるのかも、誰も知らない。

それは、まったくの暗闇に飛び込むような行為だ。

だけど「根は」、暗闇の中でしか育たない。

 

もしも木の根が暗闇の深い場所へ伸びることを恐れてしまったら、

そして地下深くへ根を下ろさなかったとしたら、

その木は死ぬだろう。

 

暗闇の中へ深く伸びる必要がある。

 

大地の一番深いところで、

水や栄養を与えてくれる、一番深いところまで、行く必要がある。

 

「ハート」とは、あなたの、もっとも暗く深い場所だ。

それは真っ暗な夜みたいなものだ。

それは子宮のようなもの。それがあなたの、大地だ。

 

人は、自分の闇の部分を知ることを恐れる。

いつも光を求めている。

そうすれば、少なくとも、自分がどこにいるかわかるだろう。

そして、何が起こっているかを見ることもできる。

安全で、守られているような気がする。

 

でも、愛をもって生いる時、

それが、どんな可能性を含んでいるのか、

その愛がどんな結果をもたらすのか、

推測や計算をすることはできない。

 

愛は、結果ありきの行為ではない。

 

愛にとって、未来は存在しない。

「いま」しか存在しない。

 

いまに存在することはできても、

次の瞬間は推測することはできない。

 

愛を、計画立てることはできない。

 

社会、文明、文化、教会なんていうものは、

小さな子どもに、もっと理性的になれと教えている。

彼らのエネルギーをハートではなく、頭へ向かわせようとしている。

すると、ハートへ深く入っていくことが難しくなる。

本当は、とてつもない愛をもって、すべての胎児は生まれてくるはずなのに。

人が生まれるのは、愛というエネルギーの源に生まれるはずなのに。

 

子どもは愛に溢れている。

子どもの小さな目を見れば、どれだけの信頼をもって世界を見ているかが伝わってくる。

子どもは何だって信じる、例えば、蛇と遊んだり、誰か知らない人にさえ、ついていったりする。

子どもは危険な火の近くへ行くのも恐れない。

なぜなら、彼らはそれが危険だと「疑う」ことを、まだ学んでいないからだ。

 

だから、大人が「疑いなさい」と教えるのだ。

懐疑心を植え付けるのだ。

論理的になるように、教えるのだ。

そうでないと、生きていけないから、と。

恐れを教え、注意しろ、用心深くなれ、と言い、

その結果、愛の可能性が、失われていく。

 

(by OSHO 翻訳は私)。 

http://www.osho.com/read/featured-books/life-love-laughter/let-love-be-your-prayer-part-5

 

at 16:38, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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人生の後半

40歳を過ぎた頃から、死について考えることが多くなった。

 

40歳というと、寿命の半分、またはそれ以上、生きてしまったことになる。

ここから、後半の始まり。

 

どう生きるか、ということを考える時、

死の方向からそれを考えると、

どう生きるかというか、

「どう生きたいか」が、もう少しだけ、明瞭になる。

 

物の考え方、

言動、

生き方、

 

すべて、「癖」のようなものがある。

 

同じパターンを繰り返している。

 

私たちはある程度、

色々なことを自分で選べる社会に住まわせてもらっていながら、

 

自分の体も、精神も、参ってしまうような思考パターンや感情に、

いくつになっても、振り回される。

 

エックハルト・トール(作家)が、

「ペインボディ」という言葉を使っていたことを、思い出す。

 

--- 「痛みを覚えている体」。

 

昔あった傷ついた出来事と似たような出来事が起こったり、

そういった言葉を聞いたり、

そういった場面を見たりすると、

 

思考よりも先に、

体が痛みを思い出して、

感情が沸き上がってくる(それは、怒りだったり、悲しみだったり)。

 

でも、感情ボディ(感情を感じる体)で何が起こっているのか、

私たちは、ほとんどの場合、無意識なので、

 

何かよくわからないけど、イライラしたり、

腹が立ったり、やきもちを焼いたり、

悲しくなったり、鬱々としたりして、

 

そしてそういった感情は往々にして、

「近い存在の人」にぶつけてしまう。

 

その、近い存在の人というのはしかしながら、

自分にとって、大事な人であることが多い。

例えば、

親だったり、子だったり、夫だったり、恋人だったり。

 

頭の中では、

そういった大事な人とは、

健やかな関係を築きたいと思っているはずなのに、

行動が伴わず、

関係を壊してしまうような言動に出る。。。

 

ペインボディから私たちが言動を起こしてしまうと、

その言動を起こしている最中も、

その後も、

 

ものすごく、

体も、心も、

疲労困憊する・・・。

 

そんな経験が、人生の前半には、正直、いっぱいあった。

 

40代になって、人生の後半に入って・・・。

果たしてそんな痛み(感情)を、

この先、

微塵たりとも感じたいだろうかと、自分に聞いてみるのである。

 

もちろん、

感情は、蓋をするべきものだとは思わない。

 

感情は、自分を守るために、そこにあってくれる。

 

悲しみでも、怒りでも、

体は、その感情のエネルギーを使って、

自分が傷つかないように、

これまでに学んできた古いやり方で、

私たちに、警告サインを送っている。

 

だから、その警告サインに従うように、

きっと今までは、

怒りを表現したり、悲しみを表現したりしてきたという人、

たくさんいる、というか、ほとんどが、そんな人たちばかりだ。

 

そして感情は、ものすごいパワーを持って、人を動かす。

人は思考よりも感情によって、行動を起こすことが多いもの。

 

でも今、

ちょっと時間を持つことができるのであれば、

何か、負の感情のようなものが内に宿った時、

それが「ペインボディ」かもしれないと、

その感情を精査する時間を持ってみたい。

 

昔から、古くから、繰り返している痛みには、

なにか共通点がある。

 

自分が、大事にしてもらわなかった経験・・・。

自分には価値がないと言われてきた経験・・・。

何もできないと言われた経験。

捨てられた経験。

 

その時の痛みが、

今の私たちの行動までを、支配しているかもしれない・・・。

 

でも、もしかすると、

もうその痛みを感じていく必要は、ないのかもしれない。

 

「これは、自分のペインボディが反応しているんだ」

と認識するとき、

 

今起こっている出来事と、

感じている感情が、

実は、直接的につながっていないことに、

気がつかされる。

 

感じている感情は昔々に植え付けられたもの。

 

そして、そんな風にそれが、

過去からのペインボディのリアクションなのだとしたら、

 

「今、自分は、そのペインボディから、行動を起こす必要があるだろうか?」

 

と、自分に聞いてみる。

 

今、起こっている出来事が、

昔の痛みを思い出させるような出来事だったとしても、

必ずしも、昔と同じ、だとは限らない。

 

なのに、

昔と同じように行動をしてしまうことで、

昔と同じ結果を、招いてしまう。

(それが、カルマの法則だ)。

 

ペインボディを、無理やりなくすことはできない。

 

でも、「ペインボディなんだね」と、

それが存在することを、認識することはできる。

 

すると、ペンボディはある程度、静かになっていく。

 

そのためには、

自分に時間を与えること、

とりあえず行動することを、やめて、

ひとりで、

文字にしたり、絵にしたりして、

メンタルクレンジングをするのも、良いかもしれない。

 

そして、自分は、ペインボディではない、ということを、もっと知っていく。

それが、マットの外で行う、ヨガでもある。

 

どう生きるか。

それがある程度自分で選べる幸福を、きっと誰でも、無駄にしたくない。

 

もう二度と繰り返したくないような出来事があるのであれば、

どうしてだって、それを繰り返さない。

これは、決断。

人は、決断しないと、やっぱり同じことを、繰り返す・・・。

 

 

ところで、去年のクリスマス、

元夫で今は友達である子どもたちの父親のところへ遊びに行った。

 

彼はカナダ人なのだけれど、

彼のおばさんが、去年、

「安楽死」を選んで亡くなったということを、聞かされた。

 

おばさんは、90代で独身のフレンチカナディアン。

最後までオシャレで、なんでも自分でやっていたのに、

ある時転んでしまって、頸椎を骨折し、首から下が動かなくなったらしい。

 

カナダでは、2016年6月に安楽死が合法化されている。

おばさんは、安楽死を選んだ。

 

安楽死を希望すると、

何度も心理カウンセラーとカウンセリングセッションを受けなければならないらしく、

おばさんも、何度もカウンセリングして、本当に死んでも良いか、話し合った。

 

彼女の意思は強く、やはり安楽死を選んだ。

 

死ぬ前に彼女は、家族のメンバー全員に会って、

ひとりひとりにお別れを告げる。

何日間か、それに時間を費やした。

 

そして、最後の日、マフィンを1つ食べた後、

「さ、マフィンがなくなったわ。もう行く時ね」

と言って、

医者がいくつかの薬を投与し、

この世を去ったらしい。

 

そしてそののちも、世界はそんなに変わらず、

同じように、太陽も登り、月も登る。

私たちが生まれる前も、そんな世界があった。

 

どう生きるか。

どう生きたいか。

時々、考えてみる価値がある。

 

カナダの安楽死についての記事は、以下のリンクで見られます。

https://jp.vice.com/news/canada-legalized-assisted-suicide-but-there-arent-enough-doctors-to-keep-up-with-demand

 

at 21:38, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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コンパクトに生きる

「コンパクトに生きる」

これが、居心地良い。

 

ちょっと前に、

「屋根ひとつお茶一杯」という本を読んだ。

(ドミニック・ローホー著)

 

ほとんどのコラムで、

嗚呼、そうだな、そんな風なのが良いな、としっくり来た。

 

特に「小さな家」というアイデアが好き。

 

そして家というのは、

「一生そこで過ごす」ものでは、ないような気もする。

 

「不動産」とは、動かない産物、みたいな意味があって、

「不」という字がついているのかもしれない。

 

でも、そういう、「動かない」概念を、翻しても悪くはない。

 

30代後半、40代という年になってくると、

家族を持ったりして、マイホームを買う人もいる。

 

毎月のローンの支払い、これが何年も続く生活・・・。

 

どれくらいの金額が、どれくらいの年月支払えるだろう・・・。

それを毎月払っていくストレスは、どんなものだろう・・・。

 

そのストレスがあるのであれば、

賃貸で暮らしていく方が良いのだろうか?

 

賃貸だって、毎月家賃を払わなければならない。

しかも、どれだけ家賃を払っても、

その家は自分のものにはならない。

 

今、日本にはたくさん空き家があって、

色々調べていくと、空き家の値段はめちゃ安い。

 

実は過去4年間の間、

趣味の一環で、

数えきれないほどの空き家を見に行っている。

 

その中で一番安かった物件は、なんと、250万円だった。

6-700万で買える家は、結構ある。

もちろん、修繕は必要だし、立地もそれほど良くない場合もある。

でもこれから、人口の減っている日本は、

どんどん、空き家が増えていく。

 

上手に空き家を活用している人たちも、何人か知っている。

 

少しの頭金があったり、

頭金がなかったとしても、

中古の安い家を35年のローンで買えば、

毎月の返済は、家賃よりも安くなる。

 

でも、中古の家の難点は、

もし、その家にもう住みたくなくなったり、

その家が必要ではなくなった時、

「買い手がいないかもしれない」・・・ということ。

 

いらなくなったのに、

売れない家の固定資産税をずっと払っていくなんてしたくない。

まさしく、負の遺産(負動産)になってしまわないように。。。

 

いらなくなったら、買い手がいるかな・・・。

とか、考える。

 

その時は、「土地の値段だけで売れたら良い」。

 

だって、中古の家は、家の値段なんて、もともとついてないものもある。

土地の値段で買える中古の家、ってたくさんある。

 

そこで、今後10年先、20年先、この「土地」は売れるかな・・・。

と考えれば良い。金額は大幅に下がったりしないかな・・・とか。

 

駅に近くて、便利なとこなら、売れるだろうなと推測がつく。

(もちろん、確実なことはわからないけど)

 

そんな感じで、安い家が見つかって、

将来売れることを前提でその家を購入して、

毎月、2-3万円のローンで暮らすことになると、

この金額なら、ストレスも少ないだろう。

家賃と比較すると、1Kでも3万の家賃というところはない。

 

お友達でも、シングルで子育てしながら、ヨガスタジオを経営してたり、

自分で事業をしている子が何人かいる。

 

「家を買う」ということは、

「そこから動けない」からやりたくない、という意見も聞いたりする。

 

でも、家を買うことで身動きができなくなる、と言う考え方を、

一度捨てると良いと思う。

 

また、家に何かを産んでもらうことだって、可能かもしれない。

「どんな地域」に家が建っているかにもよるけれど、

お店ができたり、民泊ができたりする場所・家もある。

 

そして、自分が動きたいのであれば、売ればいい。

 

年を取ったら、どんどん、スケールダウンしていけばいい。

 

で、どんどん、スケールダウンのイメージをするのも、楽しい。

 

カナダの友達は、タイニーハウスに住んでいる。

要するに、キャンピングカーみたいな家だ。

 

最小限にスケールダウンしていくと、そういう家になる。

 

今や、軽トラックサイズのキャンピングカーも日本にはある。

 

だけど、実際にキャンピングカーに住んでた人に聞くと、

結構、不便で長続きしていない。

 

カナダのタイニーハウスに住んでいる友達は、

知り合いの庭にタイニーハウスを置かせてもらっているので、

トイレもシャワーも問題なく設置できる環境にいる。

また、洗濯機も友達の家のを使える。

 

でも、本当に道にキャンピングカーをとめて生活していた人は、

まず、トイレとシャワーが面倒だったと言っている。

 

また、道に車をとめて寝ているので、不審者と間違えられる。

 

そして、冬、寒い。

日本なら夏は死ぬほど暑い!

 

年をとって、小さく、どんどんコンパクトになっていきたいと思うけれど、

できるだけ、居心地良いのが良い。

パートナーがいたら、

お互い気に障らないくらいの多少のスペースが欲しいだろう。

 

こうして、コンパクトに生きることを考えると、

要らないものが、どんどん増える。

 

これも捨てる。あれも捨てる。

だって置き場がないのだから。

 

ヨガも、コンパクトなアクティビィだ。

マットがあれば、どこでもできる。

 

通訳も、自分さえいえれば、どこでもできる仕事。

 

結局、そういう生き方が、心地良い。

 

制限されず、自由に連想していくと、

色んなアイデアと可能性が広がっていく。

アイデア、可能性に関してはコンパクトではなく、

限りなく、壮大でありたい。

 

at 22:40, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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お金のこと

むか〜し昔のことです。

まだ20代後半の頃・・・。

3つ年上だった男友達が、

1000万円くらいの貯金があるって、

教えてくれたことがありました。

 

私はその頃、貯金なんてありませんでした!

 

「なんでそんなに貯金するの?」

と、尋ねたのです。

 

「特に理由はないけど、お金があったら、やりたいことができるやん」

 

すでに子持ち、もうすぐ30歳というのに、

精神年齢が今以上に低かった私は、

その回答に、「すごい!」と感動したのです。

 

あれから何年もの月日が経過しましたが、

「お金があったら、やりたいことができる」

という彼の言葉は、今でも時々、脳裏に浮かびます。

 

お金は働いて得るもの。

自分の時間と労力を提供し、その見返りで頂くもの。

 

でも、だからといって、

やりたくないことをしてまでも、

お金を得たいだろうか?

 

その質問への答えが「No」であるのであれば、

やりたくない仕事はせずに、

よって収入はなくなってしまい、

路上生活者になるのである・・・。

 

でも、路上生活者にはなりたくないから、

やりたくない仕事を仕方がなくしている。

 

そんな人たちが、ほとんどではないだろうか。

 

でも、

本当にやりたくないことを、毎日毎日我慢してやり続けることで、

体や心が病気になることもあるかもしれない。

 

この場合、

生きていくために、

やりたくない仕事をして、

そのために病気になって、

命を削るという、パラドックスになる。

 

「パラドックスとは、

正しそうに見える前提と、

打倒に見える推論から、

受け入れがたい結論が得られることを示す言葉」

(ウィキペディア/Wikipedia より引用)

 

この、「やりたくない」という拒否感、拒絶感を、

どの程度感じるかは、

人ぞれぞれのような気がする。

 

どんなことでも、

「ああ、いやだな、でも仕方がないな・・・」

という程度で、ある程度我慢しながらやってける人。

 

反対に、

「こんなの絶対無理!こんな毎日、生きてる意味ない」

というほど、拒否反応が起こる人・・・。

 

仮に誰かが、後者の方であって、

仕事でも人間関係でも、何でも良いけど、

「絶対無理!」と感じるのであれば、

それは、やめたいってことになるのだけれど、

 

それが生活に関わってることなのだとしたら、

その代わりになるものを探して、

どうにか生きていける状況を作り直さなければならなくなる。

 

圧倒的に、後者である状況が多い場合、

周りからは、「わがまま」というレッテルを貼られる可能性もある。

 

でも後者の人たちというのは、

周りに何と言われても、無理なもんは無理なのである。

 

そこで、

この無理をバネに自分の生きる道を開拓する人がいる。

反対に、そこに力強いバネの力がない人もいる・・・。

 

だから、人生は難しい・・・。

 

「これは絶対にやりたくない」という思いと、

「でも、生きていかなければならないし」という思い。

 

絶対に絶対にやりたくないっていうのが頂点に達した時・・・。

それでも生きてくにはどにかせなあかん!

となった時・・・。

 

むか〜し昔の私は、仕事もなく、小さな子どもを抱えていて、

どうしても収入が得たいという状況になったことがありました。

 

手っ取り早く、儲かる仕事と考え、公募に応募したことがある(笑)。

 

前もブログに書いたけれど、

2003年(だったと思う)、

とある文学賞に応募するため、小説を書きました。

 

賞金が200万円だった。

200万あったら、まあ、どうにかなるかって。

お友達の1000万からは程遠かったけど。

 

2007名の応募者から、7名の候補が選ばれ、そこに私も入っていた。

 

さあ、そこから最終選考までの数日間、

毎日通った神社!(笑)

 

「文学賞が取れますように・・・。200万円、南無阿弥陀仏(神社だから違う!)」

 

もちろん、文学賞は取れず(「もちろん」というのは、適切がどうか分からない表現ですが)。

 

トボトボ・・・という表現がぴったり似合う足取りで、最終選考のホテルを後にしました。

 

だけどその帰り道、

古ぼけた本屋で見つけた仏教の本が、

私の人生をちょっと変えてくれた。

 

落ち込んだ気持ちと・・・。

もっと、謙虚にならないといけないということを、

切なく学びました。

 

とは言いつつも、

いくら年をとっても、

「あかん、これ、やりたくない!」と思うことは、

何がなんでも、やらずに済むようにするという気合い(笑)は、相変わらず・・・。

 

だけど「それならどうするか」と時間をかけて考えることや、

コツコツと、何かを培うことが、

前よりも少し、できるようになった。

 

No pain no gain という言葉があって、

「痛みがなければ得るものはない」というような意味。

 

でも私は、この言葉もあまり好きではない。

 

誰も痛い思いなんて、したいわけないし、

 

忍耐とか、努力って言葉は、大嫌い。

(やっぱり謙虚になかなかなれないのかな・・・)。

 

何かやるなら、楽しくやりたい。

楽しいから、頑張れる。

頑張ったから、楽しくなる、こともあるかもしれないけど、

頑張っても忍耐努力しても、苦しいばかりじゃあね。

苦しみに美徳を感じるってことは、私にはない。

 

いつもブログが長いって言われる。(笑)。

 

今日も長くなってしまっているけど。

 

「これ、絶対にやりたくない」と思った時。

それが生活に関わることならば、

「これやめて、どうやって生きていくんだよ」と考えてみる。

 

1000万円あったとしても、収入なかったら、そんなお金、すぐになくなる。

 

でも、無理なことをして命を減らすのはイヤ・・・・。

どうやったら、生活に困らず生きていけるだろう。

知恵を絞るわけなのです。

 

頭悪いし元金ないから、株式投資や投資信託なんてできない。

で、結局いつもたどり着くところは、「自己投資」。

 

自分に投資しよう。

自分に投資して、自分が実のなる木となろう。

だけどそうすると、自分という木が腐ったら終わりだ。

だったら、心の体も、できるだけ腐らないような生き方をしよう。

 

ヨガのクラスの中で、時々生徒さんに聞くことがある。

「夢はなんですか?」

 

そして、「先生の夢は?」って聞き返される。

 

夢? 特にない。

 

でも、たまに、

今よりもさらにもっと自由でいたいなと思う。

そして、何年も前の友達が言った言葉を思い出す。

「お金があったら、やりたいことができる」。

 

これは守銭奴であることとはまったく違う。

 

自分という木に実がなって、できれば周りも豊かになる。

周りも豊かになって、自分にもその恩恵がまわってくる。

そのために必要なもののひとつがお金だから、

やっぱり、大事な存在。

 

お金について考えることも、

お金が欲しいと思うことも、

お金を好きでいることも、

全然、悪いことではない。

 

 

at 14:55, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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特殊なニッポン

「個の尊重」とか、「多様性」という言葉がある。

中学生くらいになると、学校でも使われ出す言葉かもしれません。

 

「人権教育」なんていうのもあって、

その授業では、人権について、作文やポスターを作成しなければなりません。

 

中学生くらいの年の子の何人かは、

結構悩みながら、

そういった作文やポスターに取り掛かります。

 

桑名市の市役所に行くと、

その作品が冊子になったものが、置いてあります。

 

「みんな違ってみんな良い」

なんていうキャッチコピーのポスターには、

黄色い髪の毛、

青い目、

茶色い肌、

黒い髪、

天然パーマ、

など、様々な風貌の子どもたちが、

仲良く手を繋いでいる姿が、描かれていたりします。

 

一方、学校では、

頭髪チェックがあり、

もともと髪の毛の茶色い子は、

髪の毛の色を、学校に登録しなければなりません。

また、縮毛矯正をしている子は、

それも登録しなければなりません。

「みんな違ってみんな良い」んだけど、

少しでも違うなら、登録しておきます。

 

これって、一種のダブルバインド?

 

ちなみに、「にこにこ大百科」に以下のようなダブルバインドの例がありました。

おもしろかったので、引用してみます。

 

「黙ってないでなんとか言ったらどうだ!」と言われたので
 口を開いたら「言い訳など聞きたくない!」と余計に叱られた。

 

⊆最圓鬚靴銅犬蕕譴榛櫃「なんで失敗したのか分かってる?」と聞かれ、
 「○○だからです」と理由を説明したら「それが分かっててなんで失敗するんだ」と余計に叱られる。

 

仕事の内容で上司・先輩に相談したら、「それぐらい自分で考えろ」と言われたので
 自分で考えて仕事を行ったら後から「なんで勝手に実行したんだ」と叱られる。

 

 

こういう、ダブルバインドって、

人を精神的に、不安定にする傾向があると言います。

 

そりゃそうでしょう・・・。

 

日本人は、

西洋からの影響を受けて、

個人の尊重、多様性、と言いながらも、

 

本当は、

「集団の尊重」

「一様性」

を大切にしていくべきだと教育されてきている。

 

「個」よりも「集団」重視の社会。

集団に俗するものが作る社会が「内社会」。

 

「内社会」と「外社会」では、

人間関係や、それぞれが担う役割も、違ってくる。

 

「内社会」では、「個」ではなく、

その内社会での「自分の役割」に基づいて、振舞わなければならない。

 

学校なら、「先生」。

家族なら、「お母さん」。

会社なら、「部下」。

など、様々な役割がある。

 

「個」である前に、その役割を果たすことの方が、重視される。

「立場」というものがある。

 

日本人は自分や相手のことを、

「私(I)」や「相手の名前」ではなく、

「その人の役割」で呼ぶことが多い。

 

これは、「甘えの構造」(土居健郎)に書いあったこと(だったような気がします)。

 

「先生がやってあげるからね」

「お父さんが連れて行ってあげるよ」

「社長、お元気そうで!」

 

など。

 

で、役割がはっきりしない時などは、

主語が省かれて、英語でいうところの「I(私)」がない文章が多い。

 

「おなか空いた」

「テレビ見たい?」

「駅に行ってくるわ」

 

まるでそこには、

私(I) = 個、が存在してはいけないかのように・・・!

(自己が存在しない)。

 

「言葉は文化」なので、言葉を考えると、いろんなことが、見えてくる。

 

諸富祥彦先生が、

「トランスパーソナル心理学入門」で、

「個としての自分の確立は、日本人にとっては困難な課題」だと言っています。

 

内社会、集団社会の中では、

「自分を捨てて、ただ人に受け入れられるための"仮面"を演じ続け」なければならない。

 

そのために、

「やさしい暴力」、「やさしい虐待」に、誰もがさらされていると。

 

英語では、"Passive Agressive" という言葉がありますが、

直訳すると「受け身の暴力」という意味。

 

海外の人と仕事をしながら、日本を外側から見てみると、

その姿が、明らかになってきます。

 

例えば、「すみません」という言葉や、いつまでも終わらないお辞儀。

 

「すみません」「ごめんなさい」と言われた側は、

「いええ、こちらこそ、すみません、あなたが謝る必要ないですよ」

というような、申し訳ない気持ちになる。

 

「すみません」と言われたことで、

「すみません」と謝らなければいけない気持ちにさせられる。

 

お辞儀でも、何度も繰り返すので、

先にお辞儀をやめるのが、悪いような気持ちになる。

 

「恩返し」とは良い言葉だけれど、

ズボラで恩を返すのを忘れたりすると、

結構な悪口を、陰で言われたりもする。

 

ギフト交換の文化(お歳暮など)は、相手に恩を着せることで、

エンドレスに続く人間関係を形作ると、昔誰かが言っていた。

 

 

外国人の人が、旅館などで靴を脱ぐのを忘れてしまったりすると、

日本人の従業員が腰を低くして駆け寄ってきて、

「すみません、靴を・・・」と焦りながら、

そして申し訳なさそうにしながら、

そしてちょっと悲しそうな笑顔で謝ってくる。

 

こういう場面も外国人の人には、さっぱり意味が分からない。

 

「なんで普通に靴を脱いでください」と言えないの?

と聞かれる・・・・。

 

これでは靴を脱がなかった側に、ちょっとした罪悪感が残る。

ただそれは、日本人の従業員が意図的に、その人に罪悪感を感じさせたい、わけではない。

日本人の従業員も、その場で「ふさわしい振舞い」をしていない人に注意することに、

きっと、居心地の悪さと、申し訳なさを感じている。

 

書いてて、息苦しくなるな〜 ・・・。

 

「日本人は、すべてのものが場の力の被害者」と、河合隼雄先生は言っている・・・・。

「場の力の被害者」。

 

集団社会で、その置かれた場で、いかに振舞うべきか・・・。

誰も本心から、それをやりたいわけではなくても、そう振舞わなければ調和が崩れる。

というか、それ以外のやり方を、知らないし、教えてもらえない。

 

学校の先生は、生徒の頭髪の色を登録したいわけではない・・・。

生徒は人権教育のポスターを描きたいわけではない。

 

「個人の尊重」?

その意味さえも、分からない。

 

「多様性」?

みんなが違ったら、不安で仕方がない。

 

キリスト教の国は、個と神の関係が大切。

自分がどう生きるかで、天国に行けるかどうかが決まる。

個の尊重の歴史は長い。

 

日本人は、言葉だけを借りてきてしまった・・・。

だから、私たちは混乱する。

そして日本は他の国の人々にとって、

特殊で意味が分からない国となる(なった)・・・。

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色々な健康法

先月から、本当に久しぶりに、中医学の先生に診てもらっている。

診てもらっている、といっても、何かが数値で出てくるわけではありません。

舌や掌を見てもらって、自分の体調に適した煎じ薬が出ます。

私は毎日、その煎じ薬(お茶)を煎じて飲む。

それだけのことです。

 

それだけのことで、具体的に体の何が変わったのか、というと、

今のところ、よくわかりません。

 

なぜ、その中医学の先生のところへ行くのか?というと、

その先生が好きだから。

そして、そこへ行くと、ほっとするから。

 

私のメンターはいつも言っていました。

「人は人についてくる」。

その通りだと思う。

 

 

先日そのクリニックの待合室で待っていた時のこと。

熱をはかってくださいと言われて、はかると37.6℃もあった。

 

まったく頭は痛くないし、風邪の症状もありません。

 

「体温計、壊れてるやん」

 

別の体温計で再度チェックしても、37.5...。

この2度目の数字で、私は瞬間的に「病」になってしまった。

 

待合室で待っている間、

頭痛がないのに発熱がある病気を、iPhoneのネット検索で調べる始末。

なんだか、

どんどん、体がだるくなってくる。。。

 

そして、私は自分に問うのです。

 

「なぜ、こんなことになってしまったのか!」

 

病の原因探しは、「悪者探し」と変容し、

「私の生き方の、何が悪かったのか!」となる。

 

ちょっと、大げさなんですけど・・・。

待ってる間、暇だったから。

 

診察室に呼ばれて、

「その後どうですか?」

と聞かれ、

「体調はとても良く、湿疹も良くなりました。でも、熱があるんです・・・」。

 

腑に落ちないまま、そう言うと、

 

「あ、それ、熱じゃないの」。

 

 

「それ、普通なの。体温が高いのは良いことよ」

 

え?

37.6℃が、平熱なの?

 

「平熱、そのくらいあっていいのよ」

 

「じゃあ、病気じゃないんですね?」

 

「病気じゃないの、良いことなの」

 

この言葉で私の病が治ってしまった。

・・・我ながら驚くほど単純。

 

どうやら、煎じた薬のお陰で、体温が上がっているらしい。。。

それにしても、私がいかに容易に病気になってしまうか、

そこに気持ちがどれだけ関与してるか、ってことが、

如実に感じられ、苦笑せずにはいられません。

 

そういう意味でも、

私はやっぱり、プラセボ効果って、すごいって思うのです。

(これがプラセボだと言っているわけではありませんが)。

 

 

 

今年後半に入り、食べることに関しても、色々変化がありました。

お友達にローフードをやっている人がいるので、

食べ物のことも、沢山勉強させて頂きました。

 

そんな中、

甲田光雄先生の書物にたどり着き、

半日断食と、生菜食について、

すごいことが沢山書いてあるのに、感銘を受けております。

 

生菜食って、おしゃれな言葉でいうと、ローフードでしょ?

(ローフードとはもちろん、細かい哲学が違うと思いますが)。

 

今から何年も前に、こんなことやっていた人がいたんだと、驚きました。

 

甲田光雄先生は、西式健康法を実践しているらしいのですが、

甲田光雄先生は昭和20年代生まれの人、

西先生は、もっと昔々の方なのです。

 

朝食抜いて、

昼と夜を、玄米と生菜食にしたり、

すべて生菜食にしたり、

時々断食を行うことで、

色々な疾患が治っていきます。

 

読めば読むほど、

朝ご飯は食べないで、

水か柿の葉茶、

またはスムージーだけの方が、

良いんだろうなって思うんだけど・・・。

 

 

人って、かさぶたができても、自分でわざとめくって、自ら治りを悪くすることがある。

(ミンデル)

 

これこれ。

この、癒しを妨げる力が大きいと、もちろん良くない。

でも、少しだけ癒しを妨げる要素がそこにあるのには、理由がある・・・。

 

それは、陰陽説のように、

陰の中には少しの陽がある、

陽の中には少しの陰があることで、

あらゆる物事のバランスが取れるからである・・・。

 

すべてがプラスになるということは、

一転して、マイナスになる可能性がある、という意味みたい。

 

そうか・・・。

 

夜、寝ながら本を読みます。

朝ごはん。

実は、毎日の楽しみ。

朝のコーヒーも・・・。

 

でも、いつか、半日断食もしよう。

もう少し暖かくなったら、スムージーだけに切り替えよう。

 

今、朝ごはんを食べるのは、

少しの陰の要素が、

(かさぶたをめくる要素が)、

必要だからだ。

(自分に都合よく、いろんな説を使っている)。

 

こうして今日も、朝ごはんを食べた・・・。

量を少し減らしてみた(笑)。

 

でもいつか、半日断食は、やってみたい。

それを知ってるだけで良い。

at 18:28, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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