シッダールタ (ヘルマン・ヘッセ)

毎年、春からこの時期(6月)にかけて、体をデトックスしたくなります。

それは、体調の悪さというのが、少しのことでも、所々に現れるからです。

 

生きている限り、ストレスをなくすことはできないので

季節の変化や、日常生活から生じたストレスに対して、

居心地の悪さを感じない人はいないと思う。

 

この問題に対して、2つタイプの人がいる。

● 1つ目のタイプは、

問題解決して、居心地の悪さを取り除こうとするタイプ。

例えば、食事を変えるとか、運動するとか・・・。

私は、今はこっちのタイプ。

 

● もうひとつのタイプは、

居心地の悪さを、他の何かを体に入れることで、麻痺させてしまえ、というタイプ。

例えば、お酒飲んだり、甘い物食べたり、薬飲んだり。

私も昔はこっちのタイプだった。

 

正直、

どちらのタイプでも、良いと思っている。

 

2つ目のタイプの、

「調子悪くても、ビール飲めば治るわ」、ってメンタリティを見てると、

クソ真面目になりがちな自分を、嘲笑してしまいそうにもなるのです。

 

どちらのタイプであったとしても、
生きるって居心地悪いから、
もっとマシな状態になろうとするか、
あるいは、それを麻痺させる状態にするか、
というようなことを人はしている。

 

ところで、数ヶ月前に、犬(トイプードル)を飼ったお陰で、

毎日、川へ散歩へ行っています。

 

散歩へ行くことで、犬を通して、人と会話ができることが、とてもうれしい。

 

近所の豆腐屋のおじいさんが、黒い犬を散歩させていた。

私はこのおじいさんを、小学生の頃から知っている。

豆腐屋にも行ったことがあったけど、その豆腐屋は、今はもうない。

 

81歳とか、言っていたかな。

 

豆腐を売ってた元気なおっちゃんだったけど、今はおじいちゃん。

たった2キロくらいの小さな犬の糞を取るために、

それはそれは大きな”タモ”を持っていた・・・。蝉が1000匹入りそうなくらいの。

 

「小学校3年生の頃、もう3月になったら、この川に飛び込んどったんや」

って、

 

今は汚染されて泳ぐことなんて考えられない川を見て、教えてくれた。

 

「もうずっと、この川で育ってきたからな、わしらは・・・」

 

・・・川はずっとここにある。

 

豆腐屋のおじいちゃんとの会話の後、

ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を思い出す。

 

私の大好きな本。

ヨガの哲学が好きなら、きっと、誰でも好きであろう。

 

「この水は流れ流れ、

 絶えず流れて、

 しかも常にそこに存在し、

 常にあり、

 終始同一であり、

 しかも、瞬間瞬間に新たであった!」

 

豆腐屋のおじいちゃんにとっても、

川は、そんな存在だったんだって、

おじいちゃんが、言っている気がした。

(確実に、自分の心の投影でもあるけど)。

 

 

「常にそこに存在するもの」(プルシャ)

「変化するもの(常に新たとなる)」(プラクリティ)

 

川が、「それ、そのもの」を、シッダールタに表現するところ・・・。

好きなシーンのひとつです。

 

 

年を重ねた豆腐屋のおじいちゃんとの会話で、

「いつも川と共にあった」って話に、

 

変わらないもの(プルシャ)と、

変化するもの(プラクリティ)の、

「共存(2分化されない姿)」を、

感じて、

 

そういう時は、ちょっと、切なく、優しい気持ちになる。

最近、こういう時間が、何よりも好きだ。

 

 

小説の中で、シッダールタは、

沙門(出家して修行する仏教徒)をやめ、

商人になり、遊女と関係を持ち、

酒や賭博をするようになっていく。

 

その姿は、

純粋で志が高かったシッダールタからは、

想像がつかないようなもの、であるような気もするけれど、

 

彼は本当に若い頃から、

 

冥想も、修行も、

「我であることの苦悩からのしばしの離脱、

 苦痛と人生の無意味に対するしばしの麻酔にすぎない」

 

と言っていた。

 

そんな逃避や、しばしの麻酔なんて、

お酒を数杯飲んだりすれば、

一時的に、「我」を忘却することができるんだから、

 

修行でも、お酒での忘却も、

どちらも「無我」っていう意味では、

違いはないではないかと・・・。

 

 

さらに、

自分たちの崇拝する師が、六十になっても、

どれだけ修行しても、涅槃の境地に達してないのは、なぜだと思うか!と・・・。

(苦笑)。

 

 

自分たちは、修行することで、「自分を欺く」技巧は覚えるが、涅槃には達しない、と。

 

 

それは、修行する者にとっての、「苦」として伝わってくる。

だから、彼は沙門をやめて、お金持ちの商人になるのだけれど。

 

そこでも、彼は、苦しいのです。

苦しいから、そんな生活を捨てて、川に、たどり着きます。

 

 

シッダールタは、

彼の自我(エゴ)が、

瞑想や禁欲という精神性の中に入り込んでいたと、言っている。

 

断食や苦行によって、

その自我(エゴ)を殺そうとしていた、と。

 

そしてその自我(エゴ)は、どんなことをしても殺せなかった。

 

だから、彼は俗世に入り、

享楽と権勢、

女と金にふけることで、

彼の内の司祭と沙門を、殺さなければならなかったって!!

 

すごいなって思う。

 

それはそれは、ヘルマン・ヘッセのこの小説、

すごい内容だと毎回読むたびに、感嘆してしまう。

 

 

私たちの日常生活は、シッダールタのそれのようなものではないけれど・・・。

 

我を殺したくなったり、

忘却したくなったり、

 

時の流れを感じながらも、

 

変化するものと、変化しないものを、

同時に感じたり、している。

 

それは、自然が教えてくれる。

 

人の生も、死も。

 

自然は、美しく、切なく、悲しい。

そして私たちに、慈悲深さを、与えてくれる。

慈悲深さは、自分でつくるものではなくて、

与えられるものであると、感じるのです。

 

 

 

at 21:41, shakti-mandir, 8: 引用 / Quotation

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ヨガセラピューティック30時間トレーニング with Jonas Westring

2017年6月、

世界各国を飛び回り指導をしているヨーナス・ウェステリング先生と、

桑名市にて、「ヨガセラピューティック30時間トレーニング」を開催しました。

 

 

「なぜ、"セラピー"ではなく、

"セラピューティック(セラピー的)" でなければらならないのか」

というところから始まったこのトレーニング。


言葉で何かを表現する時、

その言葉の意味を明確にすることの大切さを、最初に教えられました。

 

ヨガで人を治療することはできない。

その点では、ヨガはセラピーとは呼べない。

 

だけど、ヨガをセラピー的(セラピューティック)に活用することはできる。

その結果、セラピーが起こる可能性もある。

 

 

理学療法、ヨガ、タイマッサージ、鍼灸、

その他のボディワークを30年近く実践指導している知識と経験から学ぶ機能解剖学。

 

自分の体と人の体の探求。

プラナヤーマ(呼吸法)や瞑想という微細な練習法。

 

とても貴重な5日間でした。ヨーナス先生、参加された皆さん、ありがとうございました

 

 

 

これまでも、ヨガセラピューティックの手法を使って、

慢性的な体の問題を抱える生徒さんと、ヨガを行ってきましたが、

今回のトレーニングで、新しいことも、沢山得ることができました。

 

 

問題が改善に向かい、

より、充実した生活を送れるようになっていかれるのは、

生徒さん自身の努力と、

ヨガセラピューティック技法のすごさ、だと思っています。

 

今は、頸椎ヘルニア(と医者に言われたらしい)の生徒さんと、

プライベートセッションをやっていて、

彼は、仰向けも、うつ伏せにも、なることができなくて、

腕にしびれと、痛みがある・・・。

 

その生徒さんと、どんなワークをしたら良いか、

セラピューティックで学んだことが、本当に、役に立っている。

 

そして何よりも、

リラックスすることのパワー。

 

リラックスをすることで、体は、自然に、良い方へ行こうとする。

 

体に触れることで、その柔らかさを感じることで、

 

(だんだん、柔らかくなっていく)、

 

私の方が、教えられていることが、沢山あります。

 

・・・ そのままを受け入れることも、愛。

 

・・・ できることを、やってみるのも、愛。

 

どこまで、やって、どこから、受け入れるか。

 

受け入れてみると、解決することも、あったりもする。

 

ヨーナス先生、通訳の真帆さん、ありがとう!

 

 

at 22:27, shakti-mandir, 1. スタジオお知らせ/ Studio Announce

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Jo Phee 陰ヨガと中医学通訳 in 札幌

「ハタヨガ」とは、体を使って行うヨガの名称。

ポーズを行っているヨガはすべて、

「ハタヨガ」、という種類のヨガに入ります。

だから、陰ヨガも、ハタヨガのひとつ。

 

どんなヨガでも、

自分の命と繋がって、自分と親密になり、

 

より良い生き方ができるように、導いてくれるもの・・・

と思っているけど、、、

 

ポーズはなかなか、

手ごわいところもあって、

 

「ポーズができるようになりたい!」

というポーズに対する執着が、きっと誰にでも、出てくると思います。

 

できないポーズがあったとしても、

毎日、毎日、練習したおかげで、できるようになるポーズもある。

 

できなかったことが、できるようになるって、うれしいことなので、

毎日コツコツ練習して、いつしかできるようになったら、

達成できたこと、素直に喜べば良いと思います。

 

 

反対に、

毎日毎日、どれだけ練習しても、できないポーズもある。

これ、こんだけ何年もやってて、できないって、

よっぽどやり方が悪いか、骨格的に、無理なんちゃうか!と・・・。

 

それでも無理しすぎて、怪我になったり、する人もいるかもしれない。

 

必ず、ある箇所以上で、可動しない関節があって、

体が、あ、これ無理っ、と言っている。

 

陰ヨガの練習法というのは、

「自分のそのままの"骨格"を、受け入れなさい」というのが、テーマになる。

 

自分の骨格に合っていないのに、

無理してポーズを行って、怪我をするようなヨガを、

陰ヨガの世界では、「悲劇」と呼ぶ(苦笑)・・・。

 

(ただ、どんなヨガでも、やり方次第で誰かにとって、毒になることがある点では、

陰ヨガでも、怪我をする人がいない、とは言い切れない)。

 

 

陰ヨガは「見た目」ではなく、

そのポーズで、「何が行いたいのか(機能)」を考えることを、大切にする。

 

 

「練習は、ポーズができないという問題を解決はしてくれない、

だって、あなたの骨格は、そのポーズができる骨格ではないのですから」

 

それは、正当な意見だと思う。

 

そして、そのままの自分の体を受け入れることで、「楽になる」ことが、多くある。

 

陰ヨガのトレーニングの通訳をさせて頂くと、

毎回、このテーマが上がってくる。

 

毎回、一度、止まって、考えさせられる・・・。

 

 

2017年5月、

7日間に渡り、札幌にて、

Jo Phee先生の陰ヨガと中医学の通訳をさせて頂いた。

 

陰ヨガのトップクラスの指導者と仕事をさせて頂くと、

自分の、陽のヨガに対するアプローチの仕方を、

深く、慎重に、考えさせられます。

 

筋肉を使って行う「陽のヨガ」と、

筋肉はできる限りリラックスした状態で行う「陰のヨガ」。

 

ターゲットにしている組織が違うのだから、

同じ土俵で議論できないことも、あると思うけど。

 

「ポーズは絶対この形でないといけない」

というような幻想からは、確実に、解放されるし、

 

特にアラインメントを指導している先生にとっては、

かなりのチャレンジとなる、陰のアプローチ。

 

そのチャレンジゆえに、活性化(脳の)が起こり、

 

私は、やっぱり、嫌いじゃない。

 

ただし、

 

何が正しいか、なんて、

 

体の話になってくると、

 

回答は、絶対に、ひとつ、ではなく、

 

わからないことも、沢山、沢山。

まだまだ、いっぱい。

 

今回は、中医学も入っていて、

五臓六腑、五行説、経絡のことについても、

勉強させて頂くことができました。

 

また、Jo Phee先生の、

どんなことがあっても、

「生徒に確実に覚えさせる」ような、

何度も何度も繰り返して行う指導の仕方に、脱帽。

 

札幌 Jo Phee先生のトレーニングには、37名もの人が参加されていました。

最後の楽しかった懇親会風景。

 

次の陰ヨガ通訳は、

Joe Barnett 先生の、30時間トレーニング in 福岡 (9月)、

アドバンスコース in 名古屋(10月)。

 

at 22:02, shakti-mandir, 7: ヨガ通訳 / Yoga Interpretation

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ハンス・セリエのストレス学説

「気分転換」って、ストレスに効果があるそうです。

 

もう、3ヶ月以上かけて、ハンス・セリエの「The Stress Of Life」を読んでいる。

 

最後の方のチャプターで、

科学者である彼が、哲学を語っているところが、興味深かった箇所のひとつだった。

 

「科学者が哲学を語るのは危険」だと、ハンス・セリエは書きながら、

それでも書かずにはいられない、と、書いている。

 

そしてその中で、科学者ではない私たちが、

ストレスを感じた時、どうしたら良いかを、提案している。

 

「気分転換」になることをすると良い。

確かに、メンタル的なストレスがある時、

散歩行ったり、買い物したり、ケーキ食べたりして、気分転換すると、効果ある。

 

でも、「過剰なストレス」の場合、気分転換では、効かないそうです。

 

過剰なストレスがある時は、

「即効性のある、ストレス解消法を実践できるようになることが大切」

だと言っています。

 

それらの方法が、

ヨガ、TM(瞑想法)、禅、自分で行う睡眠療法、ハレ・クリシュナ(チャンティング)、

その他などなど、と挙げています。

 

ハンス・セリエがこの本を書いたのは、1956年かな、

1976年に内容を見直されている(私の理解が正しければ・・・)らしく。

 

科学者である彼は、

「ヨガ云々が、ストレスに効くかは、まだ解明されていく必要がある・・・」

としながらも、

 

「これらの方法は、眠りよりも、深いリラクゼーションを与える」とまで、書いています。

 

驚いたし、人間的で、良いな〜、と思いました。

 

彼は、人が生きていくには、その人の「適応能力」が、一番の鍵になる、と言っています。

人は生きている限り、「ストレスがない状態」などあり得ず、

(季節、環境、起こってくることすべてがストレスだから)、、、

 

その時々の変化に、いかにうまく適応できるかできないかが、

その人の、からだの状態を、決めてしまいますよ、という研究なのです。

 

実際に、

「科学者として、長年時間をかけながら、ストレス研究をしていたことが、ストレスだった!」

と書いていたところは、笑ってしまいました。

 

脳(脳下垂体)から副腎皮質刺激ホルモンが出て、

副腎からアドレナリンやコルチゾールが分泌されると、からだにどんな変化が起こるのか、

 

副腎肥大

胸腺が縮む(免疫低下)

消化器系の潰瘍

 

ネズミの臓器の写真とか、関節の写真とか、数値とか、色々、実験がいっぱいの本は、

理解するの(英語だったし)難しかったけど、理解できたとこだけでも、おもしろかった。

 

でも、

最後の彼の考えを述べてるところが、やっぱり良かった。

 

人が、生きるということは、どういうことだろうって、書いている。

 

人は、「適応エネルギー」を備えて生まれてきていると。

その「適応エネルギー」には、二種類あると。

 

ひとつは、「表層にある適応エネルギー」。

これは、いつでも使えるエネルギー。

 

もうひとつは、「深層にある適応エネルギー」。

これは、貯蔵してあるもので、

「表層の適応エネルギー」がなくなったら、この深層にあるエネルギーを使うことになると。

 

そして、適応エネルギーの量には限界があって、

このエネルギーが私たちの命であるって!

 

これって、なんかちょっと、東洋的な考え方に、素人の私には、聞こえてなりません。

 

気を付けて、適応できるように生きていかないと、

生まれながらにもらったエネルギー量は、どんどん減っていきますよって。。。

 

外の環境、食べるもの、内部環境、ストレスになるものすべてに、気を付けて、

この適応エネルギーを、はやく使い果たしてしまわないようにしましょうと。

それがなくなる時は、命がなくなる時ですって。

 

彼は、好奇心を持って、好きなことをして生きることを、促しています。

 

ただ定年に向かって、毎日同じことをして、本当にやりたいことを考える時間もなく、

 

「明日になったらもっと楽になる」と信じながら、

その明日が来ることは、絶対になく・・・。

 

そして、目的なく生きていく・・・。

 

また、そんな生き方をしていることを見つめるのが怖くて、

仕事にかまけ、もっと忙しくし、仕事中毒や、忙しい病になること。

 

それは、おかしいよねって。

 

「好きなことっていつも役に立たず、報酬にもつながらない。

でもね、好きなことすること自体が、報酬そのものなんだ」。

 

そういうことって、子どもの頃は、しょっちゅうしていた。

好きなことするのが、喜びで、喜びを得るために、何かをするってなかった。

 

子どもの頃、野原で見つけた虫や花に感動したことがあったはず。

大人になっても、心のどこかで、それを覚えている。

だから、私はみんなに、

「小さい頃の夢は、何でしたか?」って聞いてみる。

子どもの頃を語りだすとき、みんなの目が、変わるから。

色んな意味で。

 

好きなことをして生きるって、簡単なことではない。

好きなこと、見つからない人もいるし、

あったとしても、好きなことしてたら、生活できないって事実もある。

 

でも、ハンス・セリエは言うのです。

 

画家は、報酬をもらうために、絵を描くだろうかと。

科学者は、報酬や名誉のために、感謝してほしいために、研究をするのかと。

 

いいえ、感謝してもらいたいために研究をする科学者なんて、いないだろうと。

「楽しいからやる」。

もっと、保守的な回答なら、「科学のための、科学だから」かもしれない。

「感謝や名誉のため」なんて答えるのは、恥ずかしいことだって。。。

 

私たちは、まず、自分が調和がとれていることが大事。

戦わなくて良い相手(事柄)にかかっていくこと(エネルギーの無駄使い)や、

戦わなくてはならないことを黙認している(使うべきエネルギーを使えてない)、

というようなことをせず、

上手に調整しながら、調和を取って、

 

喜びを与えてくれるものと、

喜びを得るために行っていることの違いを、知ることが、大切ですよって。

 

私は旅をしている時しか、本を読む時間がありません。

3月にカナダから帰国して以来、全然読む時間がなかった本だけど、

10日間、札幌出張があったおかげで、また、ゆっくり読書できた。

 

というか!

本を読む時間がないっていうのも、忙しい病だな。

と、自己を顧みた、札幌からの帰路だったのです。

ハンス・セリエ。もっと読んでみたいです。

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告白とちょっぴりの悲しみ

札幌に、

陰ヨガティーチャートレーニングの通訳に来ている、

2017年5月20日の今日は、

とても大切な日のひとつ。


正直に生きていると信じていても、

結構、そうでないことがあって。。。


一日仕事が終わって、ちょっとゆっくりすると、

緊張感が緩むのか、何かに気づかされることがあります。


私を何年も導いてくれた、ヨガの先生がいる。

彼は、あるマントラを私にくれました。


今でも、そのマントラを頭の中で唱えるのが、

癖みたいになっていて、

瞑想していなくても、知らない間に唱えてる。

お守りみたいに。


だけど、もう随分前から、

チャンティングなんて、する必要がないことに気付いてた。


何か、どこか別の場所に到達するために、

やらなければならないことなんて、

なにひとつ、

ないんだって、気付いていた。


でも、そう感じている自分を、

見て、見ない振りをしてた。


まるで子どもが成長することに抵抗するかのように。


でも今日、

私はその先生に、

ヨガもきっと必要なものでもないし、

マントラも、唱える必要がないという気がしていると、

伝えたのです。


彼は、

それで良いんだよ、と言っていた。


ヨガの練習は、

練習が必要ではなくなるために、するんだから、と。


必要なものは、何もないんだと。


私がこれを今まで告げられなかったのは、

これを告げてしまったら、

今よりももっと自分が、

独り立ちをすることになるからだと、知っていたからだろう。


それは別の言葉で言うと、

先生のことが今までよりも、

必要ではなくなりましたと、

告げるような行為だった。


ずっと、幼い生徒でありたかったんだ。


でも、変わってしまったものは、

もう元には戻らない。


月に兎はいないと知ってしまった以上、

二度と月に兎がいるなどどは、

信じられなくなるのと、同じように。


成長は、ちょっと痛みを伴うんだね。


今、新たな場所に、いるような気がしている。


そしてこの世の流動性は、止むことなく続いていく。


仏陀はそれを、諸行無常、と呼び、

人生はだから苦悩であると、説いたんだ。


ただその苦悩も、随分、薄らいでいくのです。

薄らいでいってしまいました。


それがヨガの練習のおかげとも、もうあまり思わない。

きっと、年齢を重ねたから、かもしれない。


ちょっとメランコリックな気分の札幌だけど、

明日の通訳も、楽しく、やろ!



at 23:11, shakti-mandir, ★ プライベート / Private ★

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助けるということ

誰かを助けたり、

手伝ったりする行為は、

 

時々、

その人から、パワー(力)を奪うことがある。

 

助けてあげる、ということは、

 

あなたは自分でできないから、

私がやってあげるわね。

 

ということだ。

 

よく、親子の間で生じる。

(過保護とか、過干渉)。

 

恋人同士や、夫婦間でも、生じるかもしれない。

 

ヨガの先生と生徒の間でも、生じる、かもしれない。

 

自分でできることなのに、

助けられた人は、

その時、「自分ではできない人」になり、

力を奪われる。

 

 

何でも、先走ってやってくれる人がいると、

やってもらっている方の人は、

感謝したいものなのだけれど・・・。

 

どこかに、鬱々とした気持ちが宿り、

それが、怒りとなることがあります。

 

大切な人から、力を奪ってしまいませんように・・・。

 

その人がちょっと失敗しそうでも、

気を利かせて助けるのをちょっと我慢して、

自分で立ち上がれることを、見守りたい。

 

ヨガをすることも、

自分の面倒は自分で見るということ。

主体的に、生きる、ということ。

 

 

本当に人に頼りたい時、

頼れない人もいる。

 

そんな人は、

「手伝おうか」

と言っても、絶対に、「手伝って」、って言わなかったりする。

 

 

それなら、それで良いけど、

 

人に迷惑かけるから・・・

と、人に頼らないより、

 

「ありがとう、ちょっと手伝って」

 

って言った方が、迷惑にならないこともある。

 

 

助ける人、

助けられる人、

 

頼る人、

頼れない人、

 

どこで助けるか、

どこで見守るか、

 

どこで頼るか、

どこまで頑張るか・・・。

 

とても、微妙な線引きです。

 

 

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太陽が輝く日は、雨傘が日傘に

人生設計をきちんと立てながら生きていても、

なかなか、その通りにいくことは、ありません。

 

また、「きっと無理だろう」と思っていたことであっても、

知らない間に実現していることも、あります。

 

私が英語を勉強したのは、

英語を使って仕事をしたかったからではなく、

ただ英語が好きだったからでした。

 

まさか自分が通訳になるなんて、思ってもいませんでしたが、

 

仕事をしなければならない状況になって、

できるものが、英語しかなかったので、英語を使う仕事についたのです。

 

通訳のスキルは、英語を話すスキルとは、違います。

 

通訳はお手玉をするみたいな、仕事です。

 

いくつものお手玉を、落とさないように、キャッチし投げ続けるような・・・。

まさに「今」に存在していないと、できない仕事。

 

翻訳をすることもありますが、翻訳は嫌い。

翻訳は油絵を描くような仕事。

時間がかかり、推敲し、何度でも修正できるけど、じっとしていないといけない。

動きがない。

 

英語を使う仕事ひとつとっても、

自分に合っている業種、合っていない業種が顕著にある。

 

 

時々、「どうしてヨガを始めたんですか?」

と聞かれることがある。

 

色々カッコいいこと回答できたり、

自分の人生がドラマチックだった話をしたりすることもできるけど、

 

ヨガも、好きだからやっている。

 

英語もヨガも好きだから、両方一緒にやろうと思って、

ヨガ通訳者になりました。

 

 

ヨガ通訳から、他のボディワークや哲学の通訳のお仕事も担当させてもらえるようになると・・・。

 

通訳とは、

「自分の意見を持たない(言えない)」人なので、

誰か他の人の思考や言語になり、時々、自分のアイデンティティが曖昧になります。

 

もちろん、「私は通訳」、というアイデンティティはそこにあっても、

 

その役割を担っている時は、

 

やっぱり自分はちょっと、「楽器」みたいな存在で、

 

楽器はそれだけでは音は出さないけど、

 

演奏者がいるから音が鳴るのと同じように、

 

語る人がいるから、私の口から言葉が生まれてきます。

 

それは、「カメレオン」みたいなことでもあって、

 

今日は「太陽が黄色だ」と言う人がいたら、私はその言葉を語り、

 

昨日は「太陽は赤だ」と語っていたとしても、

 

今日はもっともらしく、「太陽は黄色です」と言わなければならない。

 

 

ヨガを指導していると、

体の使い方は、「こうあるべき」というような、

ヨガなりの考え方があるけれど、

 

ヨガの流派の中でも、考え方が色々違って、

時々、議論が起こったり、

自分の練習に葛藤が起こったりします。

 

 

「自分のヨガのやり方が一番の正解」

 

と考えることが、

 

通訳をしていると、できなくなってくる。

 

 

すべてのものは、「コンビネーション」であって、

 

ある人にとって、良いものが、

他の人にとっては、毒となることがあるように、

 

 

様々な考え方や、流派も、

 

どれかひとつ、正解があるわけではなく、

 

 

雨が降ったら雨傘、

 

陽が照る日は日傘のように、

 

 

必要なもの(練習法)が、

 

必要な人のところへ、与えられているのだと、気づかされます。

 

 

私たちは、

「自分は何ぞや」という観念を持ちながら生きています。

 

それは自分の自己同一性でもあり、

 

そこにチャレンジを与えられると、とても不安になったりします。

 

 

ひとつの役割を長く担ってくると、

それが、自分の自己同一性(アイデンティティ)になります。

 

その時間が長ければ長いほど、

 

そのアイデンティティを手放すことが、怖くてしかたがありません。

 

 

もしも、そのアイデンティティが手放されるようなことがあったとしたら・・・

 

それは、子どもが巣立っていくとか、(母という自分の役割が終期を迎える)、

 

仕事を変えるとか、

 

恋人と別れるとか、

 

病が治るとか(病もアイデンティティになっていることがある)、

 

その変化が、

ちょっと悲しかったり、空しかったり、するかもしれないけれど・・・。

 

 

私たちはその時、

本来の自分は、そんな「役割」ではなかったと知る、チャンスを与えられているのだと、思います。

 

 

私はヨガを指導しながら、

通訳を通し、様々な練習法を体験させて頂けることで、

 

「このやり方じゃないと、絶対いけない」というような、

 

ヨガの練習者としての、ヨガの練習法に対する、おかしな執着を、

持つことがないように、導かれているような気がします。

 

 

何を行うにしても、

 

生きること、そのものにしても、

 

喜びと祝福をもたらすはずのものが、苦しみになりませんように。

 

 

ヨガが喜びをもたらしてくれると感じる時、

 

それは、自分がそのままの自分で、かまわなくなった時です。

 

そうすると次第に、ヨガさえも、

 

あってもなくても、かまわなくなってくる。

 

まるでヨガの練習がマット上から人生そのものへと、広がったかのようにね。

 

 

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リストラティブヨガ in Canada

4月、まだセーターが必要なほど寒かったカナダ西海岸。

 

バンクーバー付近の海に散らばるゴルフ諸島のひとつであるTexada島で、

リストラティブヨガを指導をさせて頂きました。

 

カナダOpen Source Yoga の200時間トレーニングの一部として、

2日間、4時間だけのクラスでしたが、

私にとってはとても貴重な体験となりました。

 

9名の生徒のほとんどはカナダ人でしたが、

フランスやオーストラリアからの生徒さんもいました。

 

みんな、私より断然大きな方々ばかりです。

(私、身長150cmだもの、当然ですね)。

 

簡単なリストラティブのポーズをいくつかと、

神経系についての座学を行いました。

もちろん英語で。

 

アシスタント的存在ではなく、

たった4時間であっても、

カナダでのクラスをすべて自分で担当するのは、初めてだったので、

 

ダン先生は別の部屋で仕事していましたし・・・。

 

クラスが始まる直前まで、結構緊張、したのです!

 

人になにかを伝える時、

「理路整然」と話ができるようにありたい、と思っています。

 

これは私のメンターである真弓篤氏に教えてもらい、

彼の通訳を行うことで、学ぶことができたことでもあります。

 

それはちょっと、数学の証明みたいなものであって・・・。

(数学は得意ではありませんけど)。

 

きちんと順序だって結論へ導くために、

様々なたとえ話やビジュアル的な比喩表現を使って、

かつ、

相手が飽きないように、

 

そして、

タイムマネージメントもしながら・・・

話すのですが、

 

「自律神経とストレスとヨガ」について、

 

これを英語でやらなければならなかったので、

前日になって、

焦りまくりました(笑)。

 

「緊張する緊張する」と連打していたら、

 

ダン先生に、

 

「僕の仕事の負荷を軽減しようと思って任せている仕事なのに、

君の緊張の悩みを聞く仕事が増えて困る」

 

と、怒られた!

 

クラスが始まると、

30分で緊張はふっとびましたが。

 

 

そして、

私はやっぱり長年英語を話して生きてきたんだなということを、

自分でも再確認するほど、

英語で座学をやることは、

日本語でするのと、さほど変わらなかったのでした・・・。

 

でもこれは、

言語の問題だけではないのです。

 

リストラティブのクラスの中で、

 

「誰か他の人のために生きるのではなく、自分のために生きても良い」

 

とか、

 

「そのままの自分でいてください」

 

というような言葉がけをすると、

 

日本の生徒さんは、気持ちが楽になる、と言われたりしますが・・・。

 

 

同じような言葉がけをした際にカナダでは、

 

「その言葉がけは、とても日本的だわ」

 

と言われたのです。

 

「だって私たちは、他の人のために生きるなんて、しないもの!」

 

オーストラリア人の彼女は日本のことを少し知っていました。

 

「日本は家族や周りの人との関係が大変そうだものね」

 

ああ、そうか、

西洋人はどんなことがあっても、

「役割」である前に、「個」である文化なのでした。

 

私が何年か前に受けたリストラティブの先生は、

女性だったけど、ロックンローラーみたいな容姿だった。

 

「その服装やサングラス、ヨガっぽくないよね」

 

と私が言ったのに対し、

 

「ヨガよりも、自分はまず自分であることが大事でしょ」

 

と言っていた。

 

" I " と自分を呼ぶ文化の人たちは、

役割である前に、" I " なのです。

 

お母さんや、先生や、社員や、医者である前に、「私」なのです。

 

そんな文化の人たちは、姿勢も違う。

「すみません、すみません」なんて、絶対言わない。

まっすぐ顔を見て、何でも質問してくるし、意見を言われる。

だから私も、同じように答えないと、と構えるのだ。

 

それに加え、私は「ホビット」と子どもに笑われるほど、身体が小さいので・・・。

 

大きな西洋人に圧倒されてしまう。

 

こんなことを書くと、

私を知っている人は、嘘だと思うかもしれないですが。。。

 

 

 

 

今回はでも、9名という少ない数だったのと、

リストラティブだったのと、

生徒さんのサポートもあったので、

 

とても、良いクラスになったと思っています。

 

「リストラティブが大好きになった」と言ってくれました。

 

これからも、カナダでも少しずつクラスを教えていけたら良いなと、思っています。

 

 

さて、

 

この後、

私はTexada島から、ひとりで船と小型ジェットに乗って、

バンクーバーへ戻りました。

 

「一人旅」。

 

Texada島のフェリー乗り場でダン先生と別れ、

(彼はトレーニングの途中だったので)

 

私は一人で小さなフェリーに乗って、

反対の岸からタクシーに乗り、

今まで見たことないほど小さな空港へ行く予定でしたが・・・。

 

フェリーの中で会ったおじさんが、

空港まで、年季の入ったボルボで送ってくれた!

これが、とても助かった。荷物が多かったから。

 

空港はコンビニくらいの大きさで、

 

飛行機は、かがまないと歩けないほど小さくて、

 

バンクーバーまで25分の空の旅。

 

めちゃ楽しかった!

 

下には壮大な景色が・・・。

 

パイロットの兄ちゃんはカッコ良いし!

 

若い頃を思い出して、一人で、知らない旅路を行くのは良かったよ。

 

私は昔パニック障害があって、

その頃は電車にも乗れず、

いまだに閉所恐怖症だけど・・・。

 

好奇心って大事だなと思った。

好奇心で恐怖心が消えたから、少なくとも、空の旅では。

 

でもまた美容院で顔にタオルかけられると、パニックになるんだろうな〜。

そんな自分があっても、ま、いいか。

 

嗚呼、勇気をたくさんもらった、良い、春の旅でした。

 

ダン先生と、生徒さんと、ダン先生のスタジオにて。

 

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